今回は、個人的に興味のある人物が登場していましたので、今日はその人物について書こうと思います。
その人物は、亀井進十郎です。
昨日の「軍師官兵衛」では、羽柴秀吉に呼ばれ、上月城に籠城する尼子勝久と山中鹿介に対して「ここまでよく戦った。かくなる上は毛利に降伏せよ」と秀吉の伝言を伝えるよう指示されていました。
そして、黒田官兵衛とともに上月城に入り、尼子勝久と山中鹿介にその旨を伝えました。
しかし、尼子勝久は降伏せず、見事に切腹して果て、囚われの身となった山中鹿介は毛利方に殺害されます。
亀井新十郎は、津和野藩亀井家の藩祖です。
津和野は、山陰の小京都と呼ばれ掘割の鯉(右写真)で有名ですし、明治の文豪・森鷗外が生まれた土地としても有名です。
江戸検では、津和野藩の藩校名養老館(右下写真)を問う問題が出題されたこともあります。
こうしたことから津和野は、昔から関心もあり、行ってみたい観光地でもありましたので、この津和野を江戸時代の初めから250年に亘って、藩主として治めていた亀井家にも興味がありました。
今回、その亀井家の藩祖の亀井新十郎が登場しましたので、亀井新十郎のちの亀井茲矩(これのり)について書きます。
亀井新十郎は、弘治3年(1557)、尼子氏の家臣の湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれました。
新十郎は、成長した後、尼子勝久を奉じて山中鹿介が集めた尼子再興のための軍勢に加わり、天正元年(1573)には、但馬に出陣しています。
そして、天正2年には、尼子の旧臣亀井秀綱の娘を娶り、亀井氏を継ぎました。
山中鹿介は、亀井秀綱の娘を娶り、亀井氏を継いでいましたが、山中氏に復籍したためという説もあるようです。
この説によれば、山中鹿介とは義兄弟の関係になります。
尼子再興軍は人数が少なく、大大名となった毛利氏にはかなわなくなったため、織田家の力を頼るようになりました。
そこで、亀井新十郎は、羽柴秀吉軍に組み込まれて、毛利氏と戦うようになります。
尼子勝久と山中鹿介が上月城に入った時に、なぜ、亀井新十郎が入城しなかったのかわかりませんが、亀井新十郎は上月城陥落の際も命は助かり、以後、羽柴秀吉のもとで戦います。
天正8年(1580年)の鳥取城攻略の際には、因幡国鹿野城の守備を命じられました。
また、本能寺の変後の秀吉の中国大返しの際には後詰めとして鹿野城に残留したと言われています。
また、中国大返しの際に、羽柴秀吉から、欲しい国を言えといわれたとき、「日本はすべて秀吉様のものになるので、できれば琉球国を拝領したいといって、秀吉から琉球守という名をもらったというエピソードがあります。
文禄・慶長の役では朝鮮に出兵し、虎を仕留めたとも伝えられています。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に与して戦い、戦後、加増され、3万8000石の鹿野藩初代藩主となります。
慶長17年に鹿野城で56歳でなくなります。
亀井茲矩の子政矩の時、津和野藩主であった坂崎家が改易されたため、坂崎家の跡を受けて4万3千石で津和野に転封しました。
以後、明治維新まで、津和野藩は亀井家が治めていました。
なお、国民新党の幹事長であった亀井久興氏は、津和野藩主亀井家の15代当主です。