まず、今日は、お米屋の「伊勢五」さんのご案内です。
伊勢五さんは、都営地下鉄三田線「千石駅」番出口から徒歩5分ほどの住宅街の中にあります。
不忍通りを北に入ると住宅街の道路になりますが、100メートルほど歩くと歴史のある建物が目に入ります。
母家は明治初期に建てられ、蔵は大正12年頃の建築で、母家・蔵ともに国の登録有形文化財に指定されています。
母家は出桁(だしげた)造りの典型的な町家づくりとなっています。
「出桁造り」というのは柱の上に横に渡す木材「桁」を四隅の柱よりも外に出す工法で町家に多く利用されました。
この工法によってく軒先が深くなり、建物を風雨から守ることができます。
蔵は二階建て土蔵造りです。
伊勢五さんの正確な創業年代は不明だそうですが、8代将軍吉宗の享保年間(1716~1736)には商いをしていたといわれています。
伊勢五というお店の名称は初代の伊勢屋五郎右衛門からとったものだそうです。
初代は名前の通り、伊勢国の出身だそうです。
現在の当主は8代目で、通称として今井五郎右衛門を名乗っています。
代々の名前を襲名するのは大変とのことで8代目ご当主は今井龍次という本名は別にあります。
右写真は、店内で説明をされる今井様です。
今井様のお話では、伊勢五さんがこの地に店を構えたのは、大名の下屋敷が数多くあったからではないかと考えられているそうです。
周辺には六義園はじめ大名の下屋敷が数多くありましたが、伊勢五さんにはこれらの下屋敷にお米を卸していたという記録が残っているそうです。
また、文京区ふるさと歴史館の学芸員の方の話では、文京区に江戸時代260軒の米屋がありました。
こんなに米屋が多いのは、文京区には、多くの川が流れていたためではないかということでした。
江戸時代には、お米屋は、問屋である下り米問屋、関東米穀三組問屋(かんとうべいこくみくみどいや)、地廻(じまわり)米穀問屋があり、さらに仲買があって、消費者に米を売る小売りの舂米屋(つきごめや)がありました。
この舂米屋(つきごめや)は、米を精米し消費者に販売していました。
精米とは玄米を白米にすることです。籾(もみ)から取り出した玄米は糠(ぬか)がついたままで茶色い色をしています。この玄米から茶色い糠の部分を削って白いお米にする作業が精米です。
江戸時代は、精米を手で行っていましたが、大規模に行うには水車を利用していました。
そこで、川の近くで水車を利用で生きることは、舂米屋(つきごめや)にとっては大変有利なことでした。
伊勢五さんでは、明治になってから、水車を入手したとの記録が残っているそうです。
伊勢五さんでは、現在も自店で精米をしています。
現在、多くの米店で使われている精米機は単式といって、1度で精米することができるものがほとんどです。 しかし伊勢五では、今も古い循環式の精米機を使い続けています。循環式は7、8回ほどかけて少しずつお 米を削っていくため、時間はかかりますが、粒に傷がつかず、きれいに精米できるのだそうです。
右写真は、伊勢五さんの精米機です。参加者の皆さんも興味深かそうに機械を見ていました。
伊勢五さんにあった米屋関係の資料すべてが、文京区ふるさと歴史館に寄贈されています。
この資料を中心に文京区ふるさと歴史館では平成13年度に特別展を開催したそうで、その図録「小石川と本郷の米物語」には、伊勢五さんのことが、かなり書かれています。
8代目ご当主今井様にお忙しいなか、丁寧に説明していただきました。
いつもニコニコしお優しいお顔で親切にご対応していただき大変感謝しております。
ありがとうございました、
赤印が「伊勢五」さんです。