今日は、そのうちの一軒「東京種苗」のお話をします。
都営地下鉄三田線西巣鴨駅は白山通り(国道17号線)の地下にあります。
西巣鴨駅のほぼ真上を通っているのが明治通りですが、明治通りの「掘割」の交差点は旧中山道との交差点です。
この「掘割交差点」から西は北区滝野川になり、古い字名は、三軒家(さんげんや)と言います。
より詳しくいうと旧中山道の東側の字名は東三軒家、西側の字名は西三軒家といいます。
この字名「三軒家」の由来は、江戸時代に中山道沿いに大きな種子屋が三軒あったからと言われています。
この三軒の種子屋は、「榎本孫八」「越部(こしべ)半右衛門」「榎本重左衛門」の三家です。
この三軒を中心に、中山道には多くの種子屋がありました。そのため、このあたりは「種子屋街道」と呼ばれました。
現在、三軒家と呼ばれた種子屋は、すべて廃業していますが、その名残りがないわけではありません。
その一つが、旧中山道沿いに現在も建物が残っている「東京種苗株式会社」です。
「東京種苗㈱」は、元々は、種子問屋「榎本留吉商店」といい、弘化元年(1844)に創業した老舗です。
榎本留吉商店の初代の榎本留吉は、三軒家のうちの「榎本重左衛門」の三男で、そこから分家してタネ屋となりました。
滝野川は、滝野川牛蒡や滝野川人参などの優れた野菜がとれたので、それらの種子を中心に野菜の種子を分けてほしいという旅人に、農家の副業として種子を譲っていたのが、段々専門化していったようです。
江戸時代には、この近辺で種を採取していましたが、明治以降、種子の生産地は、埼玉や千葉、茨城に移っていきました。
榎本留吉商店では、農家に委託して生産した種子の外、他の種子屋から仕入れた種子の販売もしていたとのことでした。
太平洋戦争中、野菜の種子は軍需品となり国の統制下に置かれ、種子屋は、全国で13社に統合されました。
滝野川地区の種子屋は、「東京種苗」、「帝国種苗」、「日本農林種苗」の三社に統合されました。
榎本留吉商店は「東京種苗」となり、榎本孫八家、越部半右衛門家は「帝国種苗」となりました。
終戦後は、種子に対する統制がなくなり、合同した各種苗メーカーもそれぞれ独立していったそうです。
元の榎本留吉商店が東京種苗株式会社と言う名前となっているのは、こうした経緯があるためだそうです。
東京種苗㈱」の建物は、明治初期に建てられたものですが、現在は、店舗としても住まいとしても利用されていないそうです。
この建物は、巣鴨から板橋駅の間の旧中山道に残る貴重な町家建築ですので、長く保存されているといいなぁと思いました。
赤印が「東京種苗㈱」の建物です。 青印g亜明治通りです。