黒田官兵衛が、荒木村重に幽閉され連絡がとれなくなったことにより、官兵衛が村重に加担した誤解した織田信長は、人質になっていた松寿丸を殺害するように命じます。
秀吉も反論しますが、抗しきれず。信長の命令に服します。
黒田家譜によると、竹中半兵衛も信長に抗弁しますが、信長が成敗を強く指示したため、やむえず承諾します。
通常であれば、松寿丸の命は、ここでなくなったでしょう。
しかし、竹中半兵衛は、こっそりと松寿丸を自分の領地菩提山城下に匿います。
竹中半兵衛の領地は、現在の岐阜県不破郡垂井町にありました。有名な関ヶ原の東になります。右は、垂井町にある江戸時代の竹中家の陣屋跡です。竹中家は、江戸時代は交代寄合でした。
竹中半兵衛は松寿丸を家臣の不破矢足の屋敷に匿いました。
不和矢足は、半兵衛の重臣だったようです。矢足というのは変わった名前ですが、戦いの時に足に矢が刺さったのにもかかわらず、敵を討ち取ったことによるようで、「やそく」と読むようです。
有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、不破矢足の屋敷に銀杏の木を植えたと伝えられています。
今、不破矢足の屋敷跡は、五明神社となっていて、松寿丸が植えた銀杏は、大河ドラマの最後に放映されたように現在も残っています。
また、松寿丸は、菩提山を離れる時に、半兵衛の妻得月院にいつも肌身離さずもっていた守り本尊を譲るとともに、腰に指していた太刀も進呈したといいます。
命を守ってくれたことに対する感謝を表したわけです。
それだけでなく、松寿丸(成長して黒田長政)は、関ヶ原の戦いの後、福岡藩52万石の藩主となった際に、竹中半兵衛の孫重次を3千石で、不破矢足の子喜多村太郎兵衛を1千石で召し抱え、竹中家の恩に報いました。
松寿丸が、許されて、姫路に帰るのは、有岡城が陥落して、官兵衛が救出された時です。
しかし、この時には、竹中半兵衛は、すでにこの世の人ではありませんでした。
竹中半兵衛は、天正7年6月13日に、三木城包囲の最中、平井山麓の農家でなくなりました。享年36歳でした。
黒田官兵衛が、有岡城から救出されたのは、天正7年10月12日のことです。

