浜離宮のサービスセンター後ろには、広い芝生広場があります。
ここには、明治時代の初期、迎賓館として使用された「延遼館」が起っていました。
延遼館は、当初、慶応2年に海軍所の建物として建設を開始され、明治2年に完成した日本最初の洋風建築でした。
それは、延遼館と名付けられました。延遼館とは遠来の客を引き寄せる宿舎という意味を表しているそうです。
延遼館は、コの字形をした建物で、明治16年に鹿鳴館ができるまでは迎賓館として利用されました。
明治12年、第18代アメリカ大統領グラント将軍が引退後来日した際には、延遼館に2ケ月も滞在し、明治天皇とも交流を深めたところとして知られています。
当時の建物は明治20年の地震により損壊し、明治22年に取り壊されました。
延遼館の説明板の手前に浜離宮の歴史を書いた説明板が設置されています。
そこで、浜離宮の歴史をお話します。
浜離宮に大きいな関係がある将軍は、6代将軍家宣、8代将軍吉宗、そして11代将軍家斉の三人です。
浜離宮は、元々は、承応3年(1654) 3代将軍家光の次男徳川綱重が、兄である4代将軍家綱(3代将軍家光の長男)より1万5千坪の土地を賜り屋敷を構えたのが始まりです。このころは、「浜屋敷」「海手屋敷」「甲府宰相屋敷」などと呼ばれました。
綱重の子綱豊が、宝永元年(1704)に、世継のいなかった5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名します。このことに、いままで甲府宰相の屋敷であったものが将軍家の別邸となります。
家宣は、宝永6年 (1709)に6代将軍となりますが、この時に、庭園を大改修し、「浜御殿」と呼ばれるようになります。第一回目にご案内した「三百年の松」はこの時に植えられました。
8代将軍吉宗は、浜御殿を、諸々の実験場所として利用しました。
享保14年(1729)には、ベトナムから渡来した像を園内で飼育したり、オランダ人馬術師ケイズルが浜御殿に宿泊、西洋騎馬術を上覧しています。
そして、朝鮮ニンジンやサトウキビの栽培も、浜御殿で行っています。
また、5代将軍綱吉の側室寿光院と6代将軍家宣の二人の側室(蓮浄院、法心院)の館建設しています。
浜離宮を、最も利用した将軍が11代将軍家斉です。
家斉は、浜御殿に248回も御成りになったと言われています。
その主な目的が鴨場での鷹狩りでした。
浜離宮の中には、鴨場が二つあり、今では貴重なものとなっていますが、そのうちの一つ庚申堂鴨場は、安永7年(1778)に10代将軍家治が、三人の側室の館の跡に設けたものです。
さらに、寛政3年(1791)11代将軍家斉が新銭座鴨場設けました。
この二つの鴨場で、家斉は、鷹狩りを大いに楽しんだようです。
明治になると、明治3年に浜御殿は、御庭が皇室所有となり浜離宮と称されるようになりました。
そして、昭和20年11月3日に東京都に下賜され、「浜離宮恩賜庭園」と呼ばれるようになりました。
昭和27年文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されました。
特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、東京では浜離宮と小石川後楽園の二つだけです。
全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけです。
なお、歴代将軍の御成の回数は次のようになっています。
5代綱吉 ゼロ、6代家宣7回、7代家継ゼロ、8代吉宗4回、
9代家重ゼロ、10代家治19回、11代家斉248回、12代家慶99回、
13代家定6回、14代家茂5回、15代慶喜ゼロ
このうち、家斉の御成りの67%が鷹狩、家慶の御成りの46%が鷹狩ということのようです。