「 将軍お上り場」は、将軍が船で浜御殿に来た際に上陸する場所です。
11代将軍家斉は、隅田川で遊覧した後に浜離宮に寄ったり、直接、江戸城からここに船で来りしたようです。将軍が乗った御座船は、「天地丸」といい、船の科学館に模型が展示されています。
この御座船「天地丸」は、3代将軍家光が御座船として建造したものです。
「天地丸」は、数回にわたる大修理がされていますが、文久2年(1862)に廃船となるまで、230年間以上、将軍の御座船として利用されました。
「天地丸」は廃船から12年後の明治7年撮影の写真も現存しているそうです
この「将軍お上り場」は、13代将軍家定までは、浜御殿で遊覧するための楽しい上陸地点でしたが、14代将軍家茂と15代将軍慶喜にとっては悲しみの上陸地点でもありました。
14代将軍家茂は、3回上洛しています。第1回目と第3回目は陸路で上洛し、第2回目は海路で上陸しましたが、江戸に帰ってくる際には、3回とも、海路で帰ってきて、「お上り場」で上陸しました。特に3回目の帰還は、亡骸となっての帰還でした。
☆第1回の帰還
文久3年5月13日昼ごろ、大坂を幕府軍艦順動丸で出航し、16日の朝8時頃、品川到着しました。
正午頃、お上がり場に上陸した後、中島の茶屋で昼食をとり、御座船で辰ノ口まで行き、江戸城に帰りました。
☆第2回目の帰還
元治元年5月16日大坂の天保山出航し、5月20日品川到着、浜御殿に上陸し駕籠で江戸城に帰っています。
☆第3回目の帰還
家茂は、慶応2年7月20日に長州征伐の最中大阪城で死亡します。
家茂の亡骸を乗せた幕府軍艦長鯨丸は、9月3日午前11時30分頃、大坂天保山を出航し、9月5日午後7時頃品川に到着し、そこで、大茶船に移され「将軍お上り場」から上陸しました。
上陸した後は、亡骸は陸路江戸城まで運ばれました。
大茶船というのは、一般的には、沖に停泊した大型の廻船の積荷を移し換え、河岸や物揚げ場との間を往復するはしけのことを言います。
また15代将軍慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪城から、会津藩主松平容保や桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静らごく少数の人たちと軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰り、慶応4年1月12日8時30分過ぎに「将軍お上り場」に上陸しました。
勝海舟らの出迎えを受け、浜御殿に上陸したのを出迎えた勝海舟は、慶喜に対して「敗戦の責任はあなたにある」といったそうです。
また、慶喜は朝食をすましていなかったため、木村芥舟から出されたビスケットで軽い朝食をとった後、騎馬で江戸城に向かいました。
現在は「お上り場」は、「将軍お上り場」一カ所だけですが、江戸時代は、すぐ近くにもうひとつの石段があり、そこが、家臣たちが上陸する場所で「御付お上り場」と呼ばれていました。この「御付のお上り場」は、昭和24年のキティ台風の際に海中に崩れ落ちてしまい、その後復元されていません。
しかし、干潮の時には、その「御付のお上り場」の痕跡をみることができます。
右上写真の左下段の石塊が「御付お上り場」の痕跡です。

