荒木村重の反逆に立腹していた織田信長は、世間のみせしめにするため、残虐な処刑を命じました。
最初の処刑は、荒木村重とその嫡男村次が籠城する尼崎城近くで行われ、婦女子のみ120人あまりが処刑されました。
次いで、名使い女や若党らの非戦闘員が、四戸の農家に押し込まれ、外から釘づけにされ、周囲に枯草を積んで火をつけ、焼き殺しました。
信長公記」でさえ「肝魂を失い、二目とさらに見る人なし」と書いています。
さらに、京都六条河原で、村重の妻だしをはじめ、村重の一族が処刑されました。
このように、荒木村重に対する信長の怒りは尋常ではなく、荒木一族に対する追及は非常に厳しいものでした。それでは、荒木村重自身はどうなったでしょうか。
村重は、逃げのびるのです。
有岡城が落城した後も、荒木村重の籠る尼崎城は抵抗したものの織田軍の攻撃を受けて、村重は花隈城に逃げ込みました。
しかし、ここも織田方の池田恒興と嫡男元助、次男輝政の軍勢に攻撃され、落城します。
荒木村重は、村次とともに、毛利氏の芸州に落ち延び、毛利輝元の庇護を受け、備後国尾道に閑居しました。
織田信長が本能寺の変で暗殺されると、豊臣秀吉は、大坂に呼び、堺に住まわせました。そして、千利休と親交を重ね、茶人として暮らし、茶道にいそしみました。
村重は、剃髪して「道糞」と号していましたが、秀吉が、「道薫」に改めさせたと言われています。
そして、秀吉のお伽衆として厚遇され、天正14年(1588)、堺でなくなりました、享年52歳でした。
荒木村重は、利休七哲の一人に加える説もあるほど、茶道にはすぐれていました。
講談社「利休七哲」の中では、百瀬 明治がその生涯を書いています。
「軍師官兵衛」でも再三、茶器を愛でたり、茶杓を削る場面が出ていたのは、そのためです。
現在は徳川美術館が所蔵している高麗茶碗「荒木」は、荒木村重が所有していて、千利休、徳川家康の手を経て、尾張家初代義直に伝えられた茶碗だと言われています。(右上写真)

