「和菓子の日」は、全国和菓子協会が昭和54年に制定した記念日です。
6月16日が「和菓子の日」になったのは、6月16日が「嘉祥」であったからです。
「嘉祥」は、江戸時代には、大名・旗本が総登城し「嘉祥菓子」を将軍から頂戴する重要な行事でした。
そこで、江戸検でも出題される可能性がありますので、今日は「嘉祥」について書きます。
「嘉祥」とは、室町時代末期頃から行われた年中行事のようですが、江戸時代になって、幕府は大々的に「嘉祥」を祝いました。
それは、徳川家康の三大危機の一つ三方ケ原の戦いの際に、家康の家来の大久保藤五郎が手製の菓子を献上し、羽入八幡にて戦勝を祈願した家康が嘉定通宝を拾ったという故事に基づくと言われています。
嘉定通宝の「嘉」と「通」が「勝つ」に通じることから縁起がよいと考えられたといいます。
なお、大久保藤五郎は、江戸入府後に神田上水を開削し、主水という名前を拝領し、さらに幕府御用菓子司となりました。
例年6月16日には、大名・旗本は江戸城に総登城し、「嘉祥菓子」と拝領しました。
当日は、江戸城の大広間に「嘉祥菓子」が並べられます。
そして、官位の高い人たちは一人ずつ、官位の低い人は、5人、7人、9人ずつとグループになって「嘉祥菓子」を頂戴します。
「徳川礼典録」には詳しく書かれています。それによれば、溜間詰、老中、四品以上は一人ずつ、大名、交代寄合、無官の高家、雁の間詰、菊の間縁頬詰、若年寄、御側衆、御留守居、大番頭までは5人ずつ、御書院番頭より姫君様方御用人まで7人ずつ、布衣以下は9人ずつ、将軍の前にまかり出てお菓子を頂戴します。
「嘉祥菓子」は7種類とも8種類とも言います。
「江戸の食と暮らし」(洋泉社MOOK)によれば、「寄水」「金飩」「羊羹」「阿古屋」「鶉焼」「饅頭」などと呼ばれた菓子であったようで、その数は2万個以上だとも書いてあります。
嘉祥菓子は、大久保主水が中心となって調製したと言います。
齋藤月岑(げっしん)が書いた「東都歳時記」には、6月16日は嘉祥のご祝儀で、大名は総登城し、家々でも餅を作る。貧しい庶民は銭16文でもって食べ物を準備し食べたと書かれています。
和菓子の老舗虎屋では、この嘉祥に合わせて、幕末頃に御所へお納めした七種類の嘉祥菓子をはじめ嘉祥饅頭や嘉祥蒸羊羹を販売しています。
販売期間は、6月10日から6月16日と短期間です。
このうち「嘉祥菓子」は赤坂本店をはじめとした少数のお店でしか販売されていませんが、「嘉祥饅頭」と「嘉祥蒸羊羹」は全店で販売されています。
そこで、「嘉祥饅頭」を買ってみました。
「嘉定通宝」と焼印がされたものは、薯蕷饅頭で、つくねいもを使った生地で御膳餡が入っています。
「招福」の焼印があるものは、小麦粉生地で小倉餡でした。
茶色の餅は、和三盆の白下糖の入った小麦粉生地に御膳餡でした。焼印は何のマークかなと思ったら「全国和菓子協会」のマークだそうです。