今日は、象の飼育場所跡について、ご案内します。
浜離宮では、江戸時代、象が飼育されていたことがあるというとほとんどの人がびっくりします。
象といえば、現代でも、動物園でみられるだけです。
それが、鎖国の時代に、江戸にいたなんて多くの人は思いもよりません。
まして、それが浜離宮にいたなんて想像もできません。
しかし、現に、吉宗の時代に、浜離宮で像が飼われていたのです。
その場所は、現在は花木園となっているあたりです。
右写真の正面が休憩所ですが、この左手辺りで象が飼われていました。
象は、外国の物産に非常に興味をもっていた吉宗が所望して、広南(いまのベトナム)から取り寄せたのです。
享保13年(1728)6月13日に、広南から、中国の貿易商鄭大成により 雄雌2頭の象が長崎にやってきました。
雄は7歳、 雌(めす)は5歳でした。
雌(めす)は長崎に到着後まもなくに死亡してしまいました。
翌年3月13日、ベトナム人の象使い2名と中国人の通訳2名とが付いて、雄の象が、江戸にやってきました。
途中、京都では中御門天皇と霊元上皇の上覧がありました。
この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられました。
享保14年4月28日のことでした。
この時、中御門天皇は、「時にしあればひとの国なるけだものもきょう九重にみるがうれしさ」と、そのよろこびを和歌にしています。
そして5月25日江戸に到着し、27日は,江戸城大広間車寄で吉宗が上覧しました。
その後、ゾウは浜御殿にて飼育されていましたが、12年後の寛保元年(1741)4月、中野村の源助に払い下げられ、翌年12月に21歳で病死しました。
中野の宝仙寺には、馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、戦前まで象の頭骨や牙などが保存されていましたが、昭和20年の空襲で一部を残し焼失してしまったそうです。
この像が、長崎から江戸に旅する様子を書いた「象の旅―長崎から江戸へ」(石坂昌三 新潮社刊)という本もあります