なれずしは米は捨てて魚だけを食べました。
しかし、やがて、魚だけでなくご飯も一緒に食べる「生成(なまなれ)ずし」と呼ばれるすしが盛んになってきました。室町時代のことです。
魚は半生の状態で米飯もまだ飯として食べられる内に一緒に食べてしまうものです。漬ける期間は短く5日くらいで、ほんのり酸っぱく発酵します。
これを日比野先生は、なまなれはナレ(発酵)が生々(なまなま)しいところから命名されたのだろうと推測しています。
釣瓶すし
なまなれでは、江戸との関係では、奈良の「釣瓶(つるべ)ずし」を落すわけにはいかないと思います。
吉野の鮎ずしは、延喜式もでてくるほど古い歴史があるそうです。
その吉野の鮎ずしの中で有名なのが「釣瓶(つるべ)ずし」です。
「釣瓶すし」という変わった名前の由来は、鮎ずしを入れる桶が、釣瓶形の桶であったことに由来します。(右写真参照)
「釣瓶すし」で有名なのが、吉野下市にあるという鮨屋「つるべすし弥助」です。
ここは江戸期に書かれた歌舞伎「義経千本桜」で源氏の追手から平維盛をかくまった鮨屋として登場しますので、歌舞伎をご存知の方には、大変に有名なお店です。
当時は、天然鮎を開いて腹側にすしめしを抱かせ、釣瓶の形をした桶に笹の葉を敷き、鮎を敷き詰めて笹で覆いをし蓋をし重石をかけました。
現代は残念にも古来の味が馴染めないようで、今は調味した酢めしを抱かせて「布巾締め」で押す「鮎姿鮨」と、押し鮨の「焼鮎山椒鮨」が作られ、鮎料理がメインの料理屋として営業されています。。
「鮎鮓街道」「御鮨街道」
岐阜に「鮎鮓街道」「御鮨街道」と呼ばれる街道があります。岐阜から熱田までの岐阜街道の別称で、江戸時代初期の慶長8年(1603)に将軍徳川家康と秀忠に鮎鮓を献上し、その後、元和元年(1615)から、毎年6月から9月まで、鮎鮓を江戸城へ届けた時に使われた街道です。
この献上鮎鮓が「なまなれずし」です。
「江戸の食文化」に、鵜匠家の鮎すしと書かれています。
現在、「鵜匠家に伝承する鮎鮓製造技術」として岐阜市の重要無形民俗文化財に指定されています。
江戸時代には、尾張藩が、将軍家や諸家へ献上したり、藩主らが賞味したりする鮎鮓や鮎の
塩漬・粕漬などは「御鮓所」で製造されました。
「御鮓所」は、古屋敷村(現在の岐阜市益屋町)にあったとされます。
尾張藩は、献上や進物として使う鮎を、鵜飼漁で獲れた鮎のうちから納めさせました。
これは鵜匠が御鮨所に納める定めであったようです。
いずし
「なまなれ」には、いずし(以下カタカナでイズシと書きます)と呼ばれる系統もあります。
イズシは、飯と魚・野菜・麹を混ぜて桶に入れ、重石をのせて漬け込み、乳酸発酵させて作るナレズシの一種です。
イズシは北海道から北陸地方の日本海沿いに分布しています。
その中で、有名なものが、秋田県のハタハタずしと石川県のかぶら寿司です。
ハタハタずし
ハタハタずしには、頭をつけたまま漬ける「一ぴきずし」、頭を落として漬ける「全(まる)ずし」、切身を漬ける「切りずし」があります。
秋田でよく見かけるのは「全(まる)ずし」だそうです。
ハタハタずしの漬け方は、桶の底に塩をふった後、麹を混ぜた飯をしき、塩処理をしたハタハタを並べて、上にニンジンやコンブなどの細切りを置き、これを繰り返してつくります。
飯に麹をいれて発酵を促進させることが特徴です。
ハタハタずしは、正月用のすしで「すべて元旦より2月朔日まで祝の膳には鮓のハタハタを用いる也」と書いた文書も残されているようです。
しかし、現在では、通販でいつでもハタハタずしを取り寄せることができますので、取り寄せて味わってみました。
ハタハタずしの飯は、鮒ずしほど酸っぱくありませんので、十分、飯として食べられます。
しかし、やはりメインはハタハタのようです。ほどよい酸っぱさで、これだけで食べてもよいし、ご飯のおかずとしてもよい食べ物だと思いました。
かぶら寿司
かぶら寿しは、石川県の郷土料理です。
塩漬けにしたカブで、やはり塩漬けにしたブリの薄切りを挟み込み、細く切った人参や昆布などとともに、米麹(糀)で漬け込んで醗酵させたものです。
独特のコクと乳酸の香りをもつために、おもに酒の肴として全国的に人気があります。
ブリの水揚げが最盛期となる冬の名産であり、この地方の正月料理の一品という性格も持っています。
かぶら寿し(2) posted by (C)KYR