「稲荷ずし」は、油揚げの中にご飯を詰めてお寿司にしたものです。
そこで、「稲荷ずし」という名前は「稲荷神社の使いであるキツネは油揚げが好物」との言い伝えに由来すると言われています。
また「篠田ずし」とも呼ばれます。
この稲荷ずしの発祥は、天保の頃の名古屋だろうと言われています。
その根拠とされているのが守貞謾稿の記述です。
守貞謾稿には次のように書かれています。
天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きのこ)・干瓢等を刻み交へたる飯を納れて鮨として売り巡る。
日夜これを売れども夜を専らとし、行燈に華表(とりい)を画(か)き、号して稲荷鮨あるひは篠田鮨と云ふ。ともに狐に因みある名にて、野干(きつね)は油揚を好むもの故に名とす。最も賎価鮨なり。
尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。
けだし両国等の田舎人もに専らとす鮨店に従来これあるかなり。
このことから名古屋が、「稲荷ずし」の発祥地だと言われています。
しかし、豊川稲荷の御膝元豊川市では、豊川市も発祥地でもあると言っており、豊川市のHPには次のように書かれています。
日本三大稲荷の一つである豊川稲荷の門前町として栄えた豊川市は古くから「いなり寿司」が販売されており、参拝客に親しまれてきました。
また、名古屋と並んで豊川稲荷の門前町も発祥の地の一つとして伝えられています。
江戸時代後期の様子を記した『天言筆記』によれば、弘化2年10月頃から江戸で流行した稲荷ずしの油揚げの中身は、飯やオカラで、これにワサビ醤油をつけて食べたといいます。
嘉永5年の「近世商賈(しょうこ)尽狂歌合」には、
「一本が16文、半分が8文、ひと切りが4文」という売り言葉と簡素な屋台で細長い大型の稲荷ずしを売る男の絵が書かれているそうです。
江戸時代の売られていた稲荷ずしは、現在のものより細長かったものと思われます。
稲荷ずしは、東西に違いがあって、油揚げに詰めるすし飯に具材を混ぜるのが関西、関東は何も混ぜないでせいぜいゴマや麻の実を混ぜる程度です。
また、関東では四角い俵形が一般的ですが、関西より西の地方では三角の富士山形につくられます。
この境界線は、日比野光敏氏によれば、志摩半島から琵琶湖東岸・白山山麓を通って富山湾を結んだ線だそうです。