江戸時代、世界一の人口を誇った江戸での需要を賄うため、江戸近郊で、様々の野菜が栽培され、近郊各地には、地名を冠したブランド野菜が出現しました。
江戸から東京に変わり、東京近郊の農村も都市化していくなかで、そのブランド野菜も忘れられていったものがあります。
しかし、近年、その江戸野菜を復活させようという動きも盛んになっています。
そうした運動を推し進める中心となって活躍されているのが、「江戸東京伝統野菜研究会」代表の大竹道茂さんです。
今回、江戸野菜の記事を書くにあたっては、大竹さんには、いろいろご教示ご指導をいただきました。
大竹さんいろいろお教えいただきありがとうございました、厚く御礼申し上げます。
また、大竹さんは、江戸東京野菜に関する様々な本の出版に関与されていますが、今回の記事を書くにあたっては、「江戸東京野菜図鑑編」「「江戸東京野菜物語編」(ともに社団法人農山漁村文化協会)を参考にさせていただきました。
また、この記事で使用する写真の多くは、農山漁村文化協会刊行の「「江戸東京野菜図鑑編」(右写真参考)に掲載されている写真を撮影したものを掲載しています。
写真の利用をご快諾いただいた農山漁村文化協会様にも厚く御礼申し上げます。
なお、大竹さんは、 「江戸東京野菜通信」 というブログをお持ちで、日々更新をされています。江戸東京野菜についての最新情報を見ることができます。ご一読ください。
それでは、江戸野菜について書いていきます。
江戸野菜の最初は、「滝野川ゴボウ」について書こうと思います。
現在、ゴボウは、きんぴらや天ぷらのかき揚げなど調理されるほか煮物にも用いられ、最近では細切りにして「ゴボウサラダ」として利用されています。
しかし、ゴボウを食しているのはほぼ日本だけで、日本の他には、かつて日本が統治していた朝鮮半島、台湾、中国東北部の一部だけで食材とされています。
ゴボウはキク科の2年生で、ゴボウの原産地はユーラシア大陸北部といわれていて、ヨーロッパからシベリア、中国東北部にかけて広範囲に野生種が分布しています。
日本には野生種はありませんが、ゴボウを栽培化したのは日本で、ゴボウは,日本で作物化した唯一の外国産の植物です。
中国では古くから野生のゴボウを救荒用植物や薬用として利用していましたが、野菜としては栽培していなかったそうです。
欧米に伝えられたのは、日本からで、シーボルトが文政4年(1821)にオランダに伝えました。しかし、欧米では野菜としては普及せず、欧米の人たちはゴボウをほとんど知らないようです。
日本には、中国から渡来したと言われています。
平安時代の書物「「和名抄」には「悪実(あくじつ)一名牛蒡(ごぼう)、和名岐大岐須(きたきす)。または宇末 不不岐(うまふぶき)ともいう」として記録されていて、薬草として利用されました。
宇末不不岐(うまふぶき)とは、「馬蕗」のことで、馬用の蕗に連想されたからのようです。
「ゴボウ」という名前は、「牛蒡」という漢名を音読みしたものだそうです。
ゴボウの栽培が始まったのは、平安時代後期から鎌倉時代初期以降と考えられています。
そして、江戸時代には、牛蒡の栽培は、全国に普及していきました。
人見必大(ひとみひつだい)によって著され、元禄10年(1697年)に発刊された本草書「本朝食鑑」には、「牛蒡は全国どこにでもある」と書かれています。
江戸野菜の代表として有名なゴボウは「滝野川ゴボウ」です。
「滝野川ゴボウ」は、江戸時代の元禄期に豊島郡滝野川の鈴木源吾により改良され栽培が始まったとされています。
滝野川地区は、耕土が深く 水はけのよい関東ローム層の土壌であったことから、ゴボウの生産に適していました、
ゴボウには長根種と短根種がありますが、滝野川ゴボウは、長根種です。
長根種の牛蒡は長いものが優秀と考えられてきましたが、滝野川ゴボウの根の長さは、80センチから12メートル以上にも達します。
現在流通している長根種の多くが「滝野川ゴボウ」の系統で、全国的にみても生産量が多いのは長根種だそうです。
ということは現在栽培されているゴボウの多くが「滝野川ゴボウ」の系列ということになります。