ニンジンは、セリ科の二年草で、原産地はアフガニスタン周辺だと言われています。
ニンジンはアフガニスタンから東西に伝播しましたが、西方へは10世紀ごろ近東に伝わった後にヨーロッパに伝わりました。
その後16世紀のオランダで、現在、私達がよく目にする甘味があり太くて短いオレンジ色のニンジンに品種改良され、ヨーロッパ各地に広がりました。

中国ではダイコンのことを蘿蔔(らふく)といいますが、ニンジンはその形がダイコンに似ていたことから、「胡蘿蔔(こらふく)」と名付けられました。
「胡(こ)」は中国で北方または西方の異民族を指す言葉で、「胡蘿蔔(こらふく)」というのは、胡から伝わっただいこんという意味です。
日本に伝来したのは意外と遅く16世紀だとされています。
記録としては、林羅山が慶長17年(1612)に書いた「多識篇(たしきへん)」に「せりニンジン」として登場するのが最初です。
中国から渡来したニンジンは、日本で古くから栽培されていた薬用人参(オタネニンジン)の根の形に似ていて、葉は芹(せり)に似ていたので、芹人参(せりニンジン)とよばれました。
薬用人参はウコギ科の植物であり、植物分類学上ニンジンとは異なる植物です。
そのうち、ウコギ科の薬用ニンジンは朝鮮人参と呼ばれるようになり、セリ科の「胡蘿蔔」がニンジンと呼ばれるようになったのです。
ニンジンは、享保年間(1716~1736)に8代将軍吉宗が栽培を奨励したといわれています。
「滝野川ニンジン」は、現在の豊島郡滝野川村(現在の北区滝野川)付近で栽培されたため、滝野川ニンジンと呼ばれるようになりました。
滝野川ニンジンは、根が長い品種で、長さは1メートルにも及びました。
耕土の深い滝野川は、根の長い品種の栽培に適していました。また、冬場の貯蔵用として根の長いものが好まれました。
そのため、滝野川地区では「滝野川ニンジン」が盛んに栽培されました。滝野川ニンジンは、淡紅色で、香りが強く、肉質がしまっていました。
「滝野川ニンジン」は、昭和20年頃までは盛んに栽培され、長期にわたって関東地方の代表品種でしたが、最近はほとんど栽培されておらず、純系の種子は残されていないそうです。
そのため、「滝野川ニンジン」そのものの写真は「江戸東京野菜」図鑑編にもありませんでした。
右上写真は、飛鳥山公園にある北区飛鳥山博物館の中に展示されている「滝野川ニンジン」の模型です。
練馬大根、滝野川ゴボウとともに展示されています。
「滝野川ニンジン」は絶滅したと思われていましたが、「滝野川ニンジン」を選抜・育成した「万福寺鮮紅大長人参」という長さは1メートルほどにもなる長根種のニンジン現在でも栽培されています。
神奈川県川崎市麻生区では1939年頃から滝野川ニンジンの栽培がはじまり、49年に滝野川ニンジンの系統分離による品種改良に着手、「万福寺鮮紅大長人参」が誕生した。
現在、同区には、保存会が発足し、わずかな農家で栽培されているほか、福島県の農家でも栽培されています。
ニンジンの品種は、ニンジンの伝播に応じて、大別すると東洋系と西洋系とに分類されます。
江戸時代に日本で栽培されていたニンジンは、当然東洋系で、西洋系は江戸時代後期に長崎に伝えられたものですが、現在、栽培されているものは、大部分が西洋系となっています。

「金時ニンジン」は、色が鮮紅で、肉質は柔らかくて甘みがつよく、ニンジン臭さが少ない品種で、関西では、正月料理には欠かせない野菜となっています。