山東京伝が「天麩羅」という漢字を考えたという話は、「守貞謾稿」・「北越雪譜」のほか、山東京山の「蜘蛛の糸巻」にも書かれています。
そこで、今日は、山東京山の「蜘蛛の糸巻」(弘化3年1846年刊)に書いてあるものを書き上げます。
「北越雪譜」とほぼ同じ内容です。
興味とお時間のある方は、全文をお読みください。
そうでない場合には、斜めに読み飛ばしてください。
天明の初年、大坂にて家僕二三人も仕ふ商人の次男、至情の歌妓をつれて、江戸へ逃げ来り、余が住みし同街の裏にすみ、名を利介とて、朝夕出入しけるに、或る時亡兄(山東京伝)いふやう、大坂にてつけあげといふ物、江戸にては胡麻揚とて辻うりあれど、いまだ魚肉あげ物は見えず。うまきものなれば、是を夜見世の辻売にせばやとおもふ。先生いかん。
兄いわく、そはよき思ひなり。まず試むべしとて、俄にてうじさせけるに、いかにも美味なれば、はやく売るべしとすすめけるに、利介いわく、是を夜見世にうらんに、そのあんどんに、魚の胡麻揚としるすは、なにとやらん物遠し、語声もあしし。
先生名をつけてたまはれと云ひけるに、亡兄すこし考へ、天麩羅と書きてみせければ、利介ふしんの顔にて、てんぷらとはいかなるいはれにやといふ。亡兄うちえみつつ、足下は今天竺浪人なり。ふらりと江戸へ来りて売り始める物ゆえ、てんぷらなり。てんは天竺のてん、即ち揚ぐるなり。ぷらに麩羅の二字を用いたるは、小麦の粉のうす物をかくるという義なりと、戯れいひければ、利介も洒落たる男ゆえ、天竺浪人のぶらつきゆえ、てんぷらは面白しとよろこび、見世を出だす時、あんどんを持ち来りて、字をこひける故、亡兄余に字を書かしめ給へり。
こは己れ十二三頃にて、今より六十年の昔なり。今は天麩羅の名も文字も、海内に流伝すれども、亡兄京伝翁が名付親にて、余が天麩羅の行燈を書きはじめ、利介が売り弘めしとは知る人あるべからず。
「守貞謾稿」「北越雪譜」「蜘蛛の糸巻」ともほぼ同じ内容が書かれていて、天麩羅の漢字名の語源として有名ですが、「てんぷら」という名前は山東京伝以前についていたと言われています。
山東京伝は以前から「てんぷら」という食べ物の名前を知っており、ふざけて漢字名を付けたものと思われます。
なお、「天麩羅」の語源が書かれている三誌がいつ書かれたかを調べてみると
「守貞謾稿」は天保8年(1837)起稿嘉永6年(1853)脱稿となっています。
「北越雪譜」は天保8年(1837)に出版、「蜘蛛の糸巻」は弘化3年(1846)出版となっていますので、最も「北越雪譜」が一番早く出版され、次いで「蜘蛛の糸巻」「守貞謾稿」という順になります。
ところで、「天麩羅」という漢字を考えた「山東京伝」について少し経歴を書いておきます。
山東京伝は、江戸時代後期の戯作者かつ浮世絵師で、当時の代表的な化人です。
「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴は、若い頃、山東京伝に教えを乞うています。
山東京伝は、本名は岩瀬醒(さむる)と言います。
「江戸城紅葉山の東に住む京屋の伝蔵」ということから、「山東京伝」という名をつけたといわれています。
山東京山は実弟です。京山の本名は岩瀬百樹(ももき)と言います。
二人のお墓が、両国の回向院に並んで建てられています。右上写真の左側が山東今日伝のお墓、中央が山東京山のお墓です。
また、浅草の浅草神社の社殿の裏側に、山東京山が建立した「山東京伝机塚の碑」(右の写真)があります。
浅草神社の裏側ですので、訪れる人も少なく、ひっそりと建っています。