現在、「てんぷら専門店」は、高級料理店の雰囲気があるため、「てんぷら」は高級料理であると思っている人も多いと思います。
しかし、江戸時代では、てんぷらは、主に屋台で食べられるファーストフードでした。
江戸時代、屋台見世の多くは天麩羅と鮨を販売していました。
屋台は、天明年間(1781~1789)の頃に増え始めたといわれています。
屋台の中でもそば,すしと並んで人気が高く,江戸の三味と呼ばれたのが、てんぷらの屋台でした。
守貞謾稿(岩波文庫では「近世風俗史」というタイトル)には
『屋台見世は、鮨・天麩羅を専らとす。
鮨と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各3,4ヶあり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に屋台見世を置く』 と書いてあります。
では、てんぷらは屋台でどのように食べられていたのでしょうか?
てんぷらの店に筮(めどき)を立てて置き
という川柳があります。
筮(めどき)とは、易者が使う筮竹(ぜいちく)のことです。
江戸時代には、ゼイチクに似た竹串が屋台の上の竹筒に置かれて、お客は、てんぷらを、それで刺して食べていたのです。
筮竹で判断させる天麩羅屋
竹串に魚介類を刺して、それにころもをまぶずして油であげるため、鍋からは竹串しか見えません。そこで具が何かは竹串で判断するしかないということを詠んだものです。
また、 小平次を竹鑓(たけやり)で突く天麩羅屋
という川柳もあります。
小平次とは魚のコハダの別名です。竹鑓とは竹串のことです。
これからも、てんぷらは竹串で突いて食べたことがわかります。
さらに、 天麩羅の指を擬宝珠(ぎぼし)にひんなすり
という川柳もあります。
擬宝珠というのは橋の欄干の柱頭の上にある飾りです。
橋の近くのてんぷら屋で、てんぷらを食べて、手についた油を、擬宝珠にこすりつけている様子を詠んだものと思われます。
てんぷらの屋台は、火や油を使うことから、橋のたもとや川の近くで商売をしたことが多かったといわれています。