今回の講座は、受講された皆さんが大変熱心で、その熱心さに引っ張られる形で、私も一生懸命に準備をしました。
お陰様で受講された皆さんにとって好評だったようで、終了後もお礼のメールやコメントをたくさんいただきました。 受講された皆さん、改めて御礼申し上げます。
その中で、印象的だったのは、「今回の講座では、4回とも眠っている人が一人もいませんでした。それほど素晴らしかったです」と言われたことです。
また、講座終了後にお願いしたアンケートも無記名でもいいですと断ったうえでお願いしたにもかかわらず全員が記名で答えてくれたことも大変うれしいことでした。
受講された皆さん、本当にありがとうございました。そして、江戸検本番頑張ってください。
この「江戸の食文化講座」の準備のため、夏休みが取れなかったため、日曜日から土曜日にかけて、家族で、伊香保温泉に宿泊し世界遺産の「富岡製糸場」に行ってきました。
「富岡製糸場」は、夏休みは大混雑だったそうで、昨日は混み具合がどうか心配しましたが、平日ということもあり、それなりに人がいましたが、大混雑というほどではありませんでした。
右写真は「富岡製糸場」の正門の様子です。
明治5年に作られた建物が現在も残されていて、当時、世界一の製糸工場と言われた面影が多く残されていて、明治人の富国強兵の意気込みが感じられて感激しました。
さて、今日も、本題は「そば」です。
今日は、「かけ」と「もり」について触れたいと思います。
もともと、そば切りは、「そば切り」をつゆにつけて食べるものでした。
「かけそば」は、「蕎麦切り」をつゆに付けて食べるは面倒と思い、そば切りにつゆを掛けて食べるようになったのが始まりと言われています。このように食べられれるようになった時期は、元禄時代と言われています。
寛延4年刊の『蕎麦全書』では、新材木町にあった「信濃屋」が、「ぶっかけそば」となづけてうりだしたのが始まりと書かれています。
もともとは冷たい汁をかけていたましたが、寒い時期には熱いつゆを掛けるようになりました。
当初「ぶっかけそば」と呼ばれていたものが、「ぶっかけ」となり、さらに、寛政からは「かけ」と呼ぶようになりました。
一方、従来の食べ方のそばは「もりそば」と呼ばれるようになりました。
守貞謾稿には
蒸籠に盛る蕎麦を盛りといひ、盛蕎麦の下略なり
と書かれています。
この「もりそば」がいつから使用された呼び名かですが、安永2年(1773)版の「俳流器の水」という書物のなかに 「お二かいハぶっかけ二ツもり一ツ」という句があることから、江戸時代中期の安永年間には、「もりそば」「ぶっかけ」の呼び名は使用されていたようです。
一方「ざるそば」は、江戸中期に江戸(東京)深川洲崎にあった「伊勢屋」というお蕎麦屋さん で、そばを竹ざるに盛って出されたのが始まりのようです。
明治になって、「ざるそば」に海苔がかけられるようになったそうです。
当初は、「さる」の場合には、「ざる汁」 という、「もりそば」で使われている汁とは違うコクの深い汁を使ったようですが、今では「ざるそば」専用の「ざる汁」 を作るお店は少ないようで、「ざるそば」と「もりそば」の違いは、海苔がかかっているかどうかだけのようです。
なお、「せいろそば」というのもありますが、新島繁著の「蕎麦の事典」には、「もりそばの別称」と書かれています。
「せいろ」というのは、そばを盛る器のことです。その器の名前から「せいろそば」と呼ばれていますが、「もりそば」と同じものということになります。
江戸時代初めの延宝から元禄のころは、そばは湯通ししないで「せいろ」に入れて蒸して出すことがはやりました。
そばを「せいろ」に盛り付けて出すのは、その名残りだそうです。