練馬大根の起源については、諸説あるようですが、有名な由来説として、5代将軍綱吉がかかわったという説があります。
その説は次のようなものです。
徳川綱吉が将軍になる以前、右馬頭の時代、脚気を患い、苦しんだことがあり、医者の治療を受けても治らないので、陰陽師に占わせたところ、江戸城の西方、「馬」の字のつく土地で療養すれば治ると出たので、綱吉は、練馬村に屋敷を建てて療養しました。その療養の最中に、綱吉が尾張国から宮重大根の種を取り寄せ、農民に栽培させました。
これが、練馬大根の栽培の始まりというのです。
実は、これが不思議だなと思ったことです。
というのは、5代将軍が「脚気」にかかったということを読んだ記憶がないのです。
そこで、評伝としては信頼の高い吉川弘文館の人物叢書「徳川綱吉」(塚本学著)を読み返しましたが、やはり、書いてないのです。
そうしたことから、「石神井ふるさと文化館」(右写真)に確かめに行きました。
「石神井ふるさと文化館」では、練馬大根に関する展示はかなりのウエイトが置かれています。
そこに置かれた子供向け小冊子(右下写真)には次のように書かれていました。
五代将軍徳川綱吉がまだ右馬頭(うまのかみ)であった頃、脚気にかかってしましました。
いろいろ療養しましたが、よくなりませんでした。
そこで占ってみると、城の西北方面にあり名前にちなんで「馬」の字のつく場所で養生すればよいといわれました。
このため、下練馬村に御殿を建て療養することになりました。
その後、綱吉の病気も次第によくなりました。
そこで、退屈しのぎに尾張から大根の種子を取り寄せ、桜台で栽培しました。
栽培結果は良好でした。
綱吉は、病気が良くなって江戸に戻りましたが、下練馬村の旧家の大木金兵衛に栽培を命じ、毎年献上させました。
まさに綱吉が栽培させたと書かれています。
そこで、学芸員さんをお尋ねしました。
すると学芸員の回答は、「この説は明確な根拠があるわけではなく、こう言い伝えられている」という非常に歯切れの悪いものでした。
しかし、この説が書かれているのが大正7年刊の「北豊島郡志」であることを教えていただきました。そして、 練馬教育委員会が出版している「練馬大根」という解説書も教えていただきました。
その「練馬大根」を読むと、「綱吉栽培説」を否定していました。
その話を書くと長くなるので、その話は、次回書くことにします。