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練馬大根③(江戸野菜 江戸の食文化)
 今日も「練馬大根」のお話です。
 今日は、練馬大根の誕生は、将軍綱吉によるという説についての考察ですが、練馬区教育委員会発行の『新版練馬大根』に書かれていることを記したいと思います。

練馬大根③(江戸野菜 江戸の食文化)_c0187004_910536.jpg 『新版練馬大根』には、「将軍綱吉説」が初めて書かれたのは大正7年に発刊された「北豊島郡誌」であり、それ以前の明治30年刊「園芸会雑誌」にも将軍綱吉との関係をかいた記載があるとしています。(記載内容の詳細は後記赤字部分をご覧ください)
 そして、この「将軍綱吉説」について考察を書いています。その概略は次の通りです。
 1、「北豊島郡誌」は「園芸会雑誌」と比較しても修飾が多いきらいがある。
 2、「北豊島郡誌」には、綱吉が沢庵和尚に貯蔵法を講じたと書いてあるが、綱吉が生まれる以前沢庵和尚は死んでいて、綱吉が沢庵に貯蔵法を教えることはできない。
 3、綱吉が練馬で療養したことは「徳川実紀」に記録されていない。
 4、下練馬村に綱吉が御殿を建てたという伝聞は元禄時代にはあった。
 5、練馬大根は尾張の宮重大根を取寄せたとされているが、遺伝学上その証拠はない。
 6、「武蔵野歴史地理」(昭和3年刊)には、「(北豊島郡誌の説)は甚だ信用しがたい説である。」と書いている。

 この内容は、大変長い文章ですが、練馬区の公式ホームページの「練馬大根誕生伝説」というページにも掲載されています。
練馬大根③(江戸野菜 江戸の食文化)_c0187004_9124459.jpg この練馬区のホームページの転載を練馬区広聴広報課にお願いしましたところ、御許可いただきましたので、そのまま転載させていただきます。
 転載を御許可いただいた練馬区に御礼申し上げます。
 以下が練馬大根誕生由来に関する綱吉説についての練馬区の考察です。
 長い文章ですので、時間のない方は飛ばしてください。

練馬大根誕生説
 練馬大根の伝説として、5代将軍綱吉説と篤農又六説の2つがある。明治以降、この2つの伝説は、相互に交流し加筆されて今日に至っている。

  将軍綱吉説

 この伝説の初見は、「北豊島郡誌」(大正7年刊 北豊島郡農会編)であり、次のように記載している。

 往時、徳川綱吉公右馬頭(うまのかみ)たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜(ぼく)せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。

 とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。しかし、この「北豊島郡誌」をさかのぼる20年前、その祖型と思われる「日本園芸会雑誌」(第80号日本蔬菜名品録、市川之雄編 明治30年発行)では、次のように記している。

 練馬大根は東京府下北豊島郡練馬村の産にして、秋大根中有数の名品なり、(略)今其起源を聞くに記録の因なるべきものなく、幾百年より栽培したものなるや確知し難しといえども、徳川将軍綱吉公の同村に別邸を建築せられたるとき、邸内の空地に大根を栽培して進献したる処、其性沢庵漬に適せる良味のものなりとの御諚ありたるより以降、同村に於て大根栽培せらるるものなり。


 綱吉説の考察

1.大正7年刊の「北豊島郡誌」と明治30年刊「園芸会雑誌」に記載されているものを比べると、前者の方は修飾が多いきらいがある。「園芸会雑誌」には、「右馬頭の脚気、陰陽師の卜、種子を尾張に求め、桜台(現在の北町4丁目辺り)に栽培、大木金兵衛に培養を命じ」などの記述はない。

2.史実では、綱吉は正保3年に出生し、沢庵和尚はその前年に没している。「北豊島郡誌」に述べられているように、綱吉が僧沢庵に貯蔵法を講ぜしむることはできない。

3.当時、将軍や世子兄弟の病気や湯治、屋敷の拝領などに至るまで「徳川実記」(嘉永2年完成-初代家康から10代家治に至るまでの将軍を中心にした編年体実録)には詳細に記録されているが、右馬頭が下練馬村で療養したことは出ていない。しかし、「新編武蔵風土記稿」(天保元年上呈、徳川幕府による武蔵野国の官撰地誌)の下練馬村の項には、「屋敷跡 村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すといふ、其姓氏及何人たる事を伝へず、今陸田となり御殿 表門 裏門の小名あり、礎石なと掘出す事ままありと云。」とある。

4.下練馬村内田家文書「御府内并村方旧記」の元禄10年のくだりには、「護国寺建つ、館林御殿、当村に之有り候を引き移し建つ」とある。これによれば、旧記の執筆者が生存していた頃には、綱吉が下練馬村に御殿を構えていたという伝聞があったことは確かである。

5.種苗研究家森健太郎は、「北豊島郡誌」に「蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め」とあるのは疑わしいということを、次の理由を挙げて説明している。「練馬大根が、尾張からとりよせた大根を宮重とすると、(練馬大根には)遺伝学上、どこかに宮重の遺伝現象が認められるはずであるが、(練馬大根には)なんら認められない。」(全日本種苗研究会機関紙 種苗指針第2号所収、括弧の部分は補記)

6.「武蔵野歴史地理」(高橋源一郎著 昭和3年刊)には、下練馬御殿の考証とともに、練馬大根の起源にふれ、「(北豊島郡誌の説は)甚だ信用し難い説である。或人は後人の偽作かとも云って居る。新編武蔵風土記稿には之に関することは少しも記していない。されば、この偽作も文化・文政以後最近のことであらうか。」と述べている。


 以上を読むと、「将軍綱吉」説には、論拠はないというのが大勢で、後人の偽作であるという説さえあるということのようです。
 「将軍綱吉説」の根拠が、大正7年の文献であり、江戸時代に書かれたものが一切なく、伝承も不確かなものだとすると、私は、「将軍綱吉説」というのが信用しがたいと思わざるをえません。


 なお、 『練馬大根』では、この後で、上練馬村百姓又六がたまたま古い練馬大根の原種を発見したという「篤農又六説についても説明しています。
 さらに、「将軍綱吉説」と「篤農又六説」の複合説も紹介していますが、複合説の代表が、春日町の練馬大根碑の碑文で、その碑文では、将軍綱吉より直接上練馬村の百姓又六に宮重大根の種子が与えられたことになっているそうです。

 そして、最後に次のように書かかれています。
 伝説とは、このように時代や地域により種々変化して語り継がれていくものである。変化することによって時代や地域に生きるものであるから、どちらが先かを争ったり、一方を否定したりすべきものではない。
 私たちは、いずれの伝説も練馬大根誕生の地が上・下練馬村の富士大山道沿いにあることを踏まえ、さらに史的な展望を試みたい。

 詳しくご覧になりたい方は、次の練馬区の公式ホームページをご覧ください。
  練馬大根誕生説


 今日は、長い記事になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
by wheatbaku | 2014-09-12 08:57 | 江戸の食文化

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