八百善の様子は、一緒にお邪魔したひまつぶしさんとお気楽マダムさんもそれぞれご自分のブログに書いていますのでご覧になってみてください。
ひまつぶしさん 「過去・現在・未来」
お気楽マダムさん 「お気楽マダムの奮闘記」
さて 今日は八百善で見させていただいた文化財についてご案内します。
その前に、八百善の建物について、11代目栗山雄太郎様から伺ったお話を書きます。
右写真が、八百善の建物ですが、大変風格のある建物です。
こちらは、明王院が管理している建物だとは聞いていましたが、お寺の建物とは思えない風情のある建物です。
実は、この建物は、大正時代に建てられた某経済人の所有するものだったそうです。、それが、縁あって明王院が管理するものとなりました。
そして、バブル時代には料亭として利用されていたこともあるそうです。
なるほど、やはり、風格のある建物だと感じさせられる歴史があるんだと思いました。
八百善には、多数の額や書が掲示されていましたので、今日は、それらをご紹介します。
まず、大田蜀山人が書いた歌です、
ちはやふる かみすきばしを 夕こえて 八百善にてや 月まつち山
と書かれています。
八百善の御主人10代目栗山善四郎様のお話では、こうした歌・俳句・詩・書といった類は、八百善の天井や壁や襖に、直に書かれているものが多かったそうです。
4代目栗山善四郎は、そうした歌や書の一部を切り取って保存をしたそうです。
山谷の八百善は、関東大震災で焼失してしまいましたが、このようして4代目が軸にしてくれたため、大田蜀山人の歌も残されたのだそうです。
この歌は、八百善の営業案内にも使用されています。
松平不眛公の額も掲示されていました。
「安膝堂」と書かれています。 「膝を安んじる御堂」という意味だそうです。
山谷の八百善は、江戸時代、いくつかの建物が建っていたそうです。
そのうちの一つに、松平不眛公が「安膝堂」と名付け、額にしてくれたそうです。
10代目栗山善四郎様のお話では、八百善は、関東大震災の際に焼失しましたが、火がつくまでに、2時間の猶予があったそうです。
そのため、多くの貴重なものを持ち出すことができたようです。
この額も、大震災の中で、八百善の人たちが守り抜いたものかもしれません。
食事が終わり、最後に、11代目となる栗山雄太郎様に、酒井抱一の「鶴かけの松」の絵などは残っていませんでしょうかと尋ねました。
すると「鶴かけの松」は残っていませんが、酒井抱一の書いた書で残っているものがありますとのことで、その書を特別に見せていただきました。
別室ですが、抱一と署名されている書がありました。。「不老亭」と書かれています。
その部屋では、もっと貴重なものを拝見させていただきました。
それは「徳川屏風」です。 文政10年に、11代将軍徳川家斉が世子の家慶とともに八百善に御成になった際に、その席に飾られた屏風だそうです。
この屏風は将軍家が八百善に持ち込んだもので、御成が終わった後に、そのまま八百善に下賜されたものだそうです。
左手には五つの葵の御紋が散らされていて、右手には扇面が描かれていました。
八百善では、大変貴重なものを拝見させていただきました。
私も、江戸の老舗を訪ねた際には、江戸時代から残されているものがあるか尋ねますが、多くの老舗が関東大震災や戦災で焼失してしまい残っていないと言われます。
そうした老舗が多い中で、これだけの書や額がのこっているのは大変貴重だと思います。
私も大変うれしかったのですが、ご一緒した皆さんも大変よろこばれていました。
無理なお願いにもかかわらず御了承していただいた11代目の栗山勇太郎様ありがとうございました。
最後までお見送りをいただき、かえって恐縮した次第です。
帰り際にお写真を撮らさせていただきました。
勇太郎様本当にありがとうございました。
最後に、この記事を読まれて、八百善に行ってみたいと思われた方のため、八百善の営業案内を載せておきます。
これに、大田蜀山人の歌
ちはやふる かみすきばしを 夕こえて 八百善にてや 月まつち山
が使用されています。