浅草海苔は、海苔の代名詞でもありますが、江戸時代から、江戸の名物でした。
江戸名所図会には
『大森・品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古(いにしえ)かしこの海に産せしゆえに、その旧称を失わずしてかく呼びこ来たれり。(中略)諸国ともに送りてこれを産業とするもの夥(おびただ)しく、実に江戸の名産なり』
と書かれています。
浅草海苔の名前の由来は、浅草周辺の海で採られ、作られ、売られたからだというのが通説ですが、天海大僧正が付けたという説もあるようです。
浅草海苔が採られるようになったのは、東都歳時記によれば、徳川家康が江戸に入府する前後にあたる元亀・天正の頃からだそうです。
採れた場所は、最初は浅草の周辺ですが、そのうち、葛西で採れた海苔が浅草に送られ浅草海苔と称されました。さらに、海苔の需要が増えると、浅草周辺での生産が追いつかなくなり、品川で採れた海苔が浅草で加工され浅草海苔とよばれるようになりました。
浅草で浅草紙と呼ばれる漉き返し紙が製造され始めたのは、延宝年間(1673~1681)または天和年間(1681~1684)と言われています。
浅草紙の漉き場は、橋場や今戸にあったようです。
そして、浅草海苔の製法も、浅草紙の製法と似ており、浅草海苔の抄き場も橋場にあり、今戸に近い山の宿や花川戸にあったようです。
そして、浅草海苔が作られ始めたのは享保年間といわれており、浅草紙より遅いとされています。
以上から、浅草海苔は、浅草紙の製法を基礎にして、浅草紙と同じやり方で製造されるようになったのは間違いないようです。
江戸時代の中期になると、海苔の養殖が始まります。これは増大する需要に対応するためであったと思われます。
養殖の開始時期については、諸説があり、最も早いものは延宝・天和(1673~1684)とする説が有り、最も遅い説は享保2年(1717)としています。
宮下章氏の「海苔」では、元禄時代から養殖が始まり享保2年に基礎が築かれ、延享3年(1746)に盛んになったとしています。
海苔養殖のきっかけは、生簀(いけす)を囲む木の枝や笹竹に海苔が付くのを見て、木の枝や笹竹などを品川の浅瀬に建て始めたことからだと言われています。
養殖のための木の枝などはヒビやヒビソダと呼ばれました。
ヒビ材はナラが最もよく、次いでケヤキや竹がよいとされました。
名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」
ヒビが建てられている様子は品川の名物になっていたのでしょう。
歌川広重の名所江戸百景の中で「南品川鮫洲海岸」として描かれています。
左の浮世絵がそれです。
鮫洲海岸は、南品川から大森にかけての海岸を言います。広重の時代には。鮫洲海岸が海苔の養殖の中心になっていました。
絵の広い範囲にヒビがかかれていて、海苔を採取している様子も描かれています。
海苔を養殖する時期は冬ですので筑波山の上には雁が飛んでいます。