「熈代勝覧」は『江戸の食文化』にも取り上げられていますが、『江戸の食文化』では全容が載っていませんが、三越前の地下通路に設置されている「熈代勝覧」は全容がわかるので理解しやすいと思ったからです。地下通路の熈代勝覧は17メートルにも及ぶものです。
当日、「はとバス」のガイドや地元のガイドも案内していましたので、日本橋の名物になりつつあるのかなぁと感じました。
そこで、今日からは数回に亘って「熈代勝覧」について、ブログ上でも書いていきたいと思います。

熈代勝覧は、平成11年にドイツで発見され 、現在はベルリン国立アジア美術館が所蔵しています。
「熈代勝覧」は、右下写真のごとく長さが約12メートル、縦が約43センチの絵巻物です。
描かれているのは、日本橋から今川橋での7丁(約メートル)の日本橋通りの北側の街並みと通行人の様子です。
題名の「熈代勝覧」は「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる大江戸の景観をご覧あれ」という意だといわれています。題字には署名がありませんが、当時著名であった書家佐野東洲が題字を書いたことがわかっています。
右写真は、上の題字の左の印の部分を拡大したものです。
上の印は「左潤之印」、下の印は「東州」と読めます。佐野東洲は、左潤とも号していたことがありました。
これらの印が押されていることから、佐野東洲が題字を書いたものと言われています。
なお、この題名は1.26メートルもあります。
一方、絵師を示すものは何もありませんので、現在のところ誰が書いたのか不明です。
しかし、佐野東洲は文化初年に一時期山東京山を婿養子にとっていることから、その兄であり、北尾政演の名で絵師としても活躍した山東京伝ではないかと、小沢弘先生は書いています。
絵巻が描かれた時期は文化2年(1805)だと言われています。
これは、絵巻の中の本堂再建の勧進をしている集団の一人が「文化二 回向院」と書かれた箱を舁いでいることから、この絵巻で描かれている時期が文化2年であることがわかります。
江戸三大大火といえば、明暦の大火、目黒行人坂の大火、それと丙寅の大火です。
丙寅の大火は、牛町火事とも車町火事とも呼ばれる大火です。
この丙寅の大火は文化3年に起きた大火で、高輪車町(牛町)で出火し浅草まで焼失したと言われている大火ですが、この大火で、日本橋界隈は全焼していますので、その大火で焼失する直前の日本橋を描いたものです。
題字には、右写真のように「熈代勝覧」という題名の下に「天」とあります。そのため、もとは「天」「地」の二部作、または「天」「地」「人」の三部作であった可能性があると言われています。
日本橋通りの北側が描かれているので、オーソドックスに考えれば、最低でも、南側を描いた「地の巻」があってもおかしくはないと思います。
しかし、「地の巻」や「人の巻」は現在まで見つかっていません。
季節はいつかということですが、季節がはっきりとわかるものは、十軒店の雛市だけです。
しかし、日本橋川で水泳をしている子供も描かれていたり、カツオと思われるような魚も描かれています。
そのため、絵師は季節はあまり意識せずに描いたとも思われるし、または複数の季節を織り込んで描いたともいえるかもしれません。

