
現在、「木屋」は刃物を取り扱っている店が一軒だけですが、江戸時代には、木屋は複数ありました。
「熈代勝覧」では、四軒の「木屋」が描かれています。上図が、四軒の「木屋」 を描いた部分です。
四軒の「木屋」は、「木屋」の支店ではなく、それぞれ経営が別の「木屋」です。
それは、暖簾に書かれた商標が違っていることから判別がつきます。
建物を普請している店は暖簾がありませんが、大工が着ている印半纏には丸に木のマークがついています。これが「本家木屋」です。
そして、その右隣はバツに木の商標、さらに右隣は山形に木の商標、そして最も右は井桁に木の商標と、それぞれの商標が異なっています。
これにより、右三軒の「木屋」は暖簾分けされた「木屋」であることがわかります。
本家の木屋の祖初代林九兵衛は、大阪の御用商人でした。
家康から江戸に下るようにとの招きを受けましたので、当主の弟が江戸へ下りました。
そして、大阪の店と分かれたので姓の林を二つに分けて「木屋」と名乗ったそうです。
本家木屋には「暖簾分けは許すが、本家と同じ商品を扱うことは許されない」と言う しきたりがあったそうです。
そのため、暖簾分けされた木屋はそれぞれ、別の商品を取り扱かうようになりました。
そのため、暖簾の商標も違ったものとなっています。
現在、営業している「木屋」は、「熈代勝覧」では、最も右側の「木屋」です。
現在の「木屋」は、刃物を販売していますが、「熈代勝覧」、当時は看板に火打ち石などと書かれていて、刃物を営業をしているようには見えません。
木屋から少し北にいき駿河町に近づいてくると「書肆 本」と書かれた看板を店先に置いた店舗があります。こちらは、本屋の須原屋市兵衛の店です。
須原屋市兵衛は、杉田玄白の「解体新書」や林子兵の「三国通覧図説」などを出版している有名な本屋です。
須原屋の店の前に、坊さん二人と下男風の男二人のグループがあります。右図の右下に描かれた下男風の男がもっている箱をよくご覧いただくと、そこには、「回向院 文化二」と書いてあります。
そして幟旗には「本堂」と書かれています。
これは回向院の本堂再建の勧進を行っているグループだと言われています。
ここに書かれている文化二が、「熈代勝覧」が描いている時期を決定づける重要な語句です。
これにより、「熈代勝覧」は、文化2年頃の日本橋通りを描いたものであるというのがわかります。

