越後屋は、駿河町の両側を占めて、描かれています。
井桁に三の商標が染まれた暖簾と「現金掛け値なし」と書かれた看板で、越後屋であることは一目瞭然です。

それでは、最初に越後屋の歴史についてお話します。
越後屋の創業者は、いうまでもありません、三井高利です。三井高利は、伊勢国松坂の出です。
三井家は、大和とも近江とも言われる出身の武士であると言われています。
高利の父の代に松坂で、商人になりました。
越後屋という商号は、高利の祖父高安が越後守であったので、越後屋という名前にしたと言われています。
高利は、8人兄弟の末っ子で、長兄俊次は江戸で呉服店を経営していました。
この店は、「釘抜越後屋」と言われます。
14歳のとき江戸に出て、高利は兄の店で働きますが、あまりにも商才があったので、警戒した兄から、たまたま松坂で母の面倒をみていた仲兄の重俊が亡くなったこともあって、母の孝養という理由をつけられて28歳のとき松坂に帰されてしまいます。
その後は、高利は松坂で母の面倒を見ながら時期を待ちました。
そして、再度江戸で商売ができるようになるのは、長兄が死亡した後になります。
延宝元年(1673年)、三井高利が52歳の時に、長男の高平を江戸の責任者にして、本町1丁目(ちょうど現在の日銀新館あたり)にお店を開きます。
この時に始めたのが「現金掛け値なし」という新しい商法です。
この新商法により越後屋は大変繁盛しますたが、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになりました。
呉服仲間から仲間はずれにされたりしました。ひどい場合には、いやがらせのために越後屋の台所先に、雪隠が作られたこともありました。
このような状況の中で、天和3年(1683年)に、火事により本町の店が焼失したこともあり、当時両替商が多く店を構えていた隣町の駿河町に移転しました。これが駿河町の越後屋の始まりです。
移転当初は、駿河町の南側に店舗を構えました。間口約7間、奥行20間の小さなお店でした。
右図を参照してください。
そして、移転と同時に、呉服店の西隣で両替店も開設しました。
その後、貞享2年(1685)に、北側に両替店を移転し、南側は、呉服店だけとしました。
貞享4年(1687)には、両替店の脇に、「綿店」を開き、木綿類の販売も開始しました。
元禄11年(1698)綿店と本店の位置を入れ替え、北側が本店となり、南側が向店となりました。
以後、北側が本店、南側が向店の体制が続きます。
『江戸の食文化』58ページには駿河町越後屋本店35間(63m)・向店21間半(39.1m)の間口がありましたと書いてあります。これがいつの時期かは書いてありません。
現在の三井本館は約110メートルありますので、三井本館の半分強までが越後屋本店であったことになります。
また、越後屋本店約320人・向店約200人の店員がいたと書かれています。
すごい数の店員がいたことになります。
この店員は、すべて、上方に採用された人たちで、しかも男性に限られました。
江戸で採用されるのは、賄方など裏方を担当する人たちで、こちらも男性に限られました。つまり、越後屋の従業員は、すべて男性だったわけです。
こうした体制で、越後屋は繁盛していくわけですが、その商法にも特徴がありました。
その商法については明日書こうと思います。

