そんなことで、「熈代勝覧」については一区切りをつけようと思いますが、今日は、原田先生の『江戸の食文化』にものっていた「玉鮓」について書こうと思います。
「熈代勝覧」では、「玉鮓」は、十軒店の北側の通り石町に描かれています。
入り口の障子に「玉鮓」と大きく書かれていますのでわかりやすいお店です。
店脇に掲げられた旗竿をよくみると「玉寿し」と書かれています。
「玉鮓」は文政 年に出版された「江戸買物独案内」にも載っている名店で、「江戸買物独案内」には
御膳 元祖 玉鮓所 本石通十軒店 翁屋庄兵衛 と書かれています。
「玉鮓」の提供した寿司がどのような寿司なのか興味のあるところですが、店内をのぞいてみても、道具が描かれているだけで、どんな寿司なのか想像するのが難しいように思います。
一方、本町通り近くの路上には、屋台の寿司屋らしきものがあります。
「大江戸日本橋絵巻 『熈代勝覧』の世界」(浅野秀剛・吉田伸之編 講談社刊)では、
屋台の構造や飯の入った櫃のある様子が、広重画「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」に描かれた寿司屋の屋台の様子に良く似ている点と飯櫃の飯を手に取る様子が、握り寿司を握る様子を思わせる点に注目し、この屋台が握り寿司の屋台ではないかと考えています。
そして、「本絵巻の屋台店は握り寿司的なものにつながる可能性も考えられる。」と書いてあります。
握り寿司は、一般的には、文政年間に考案されたものと言われています。
しかし、それ以前にも、握り寿司があったというふうにも考えるひともいます。
「熈代勝覧」は文化2年に描かれていますので、もし、握り寿司が明確に描かれているのであれば、通説をひっくりかえす貴重な史料になったと思われます。
しかし、熈代勝覧」に描かれた「玉鮓」も、本町通り近くの路上に描かれた寿司屋らしき屋台にも、明確に握り寿司であるとわかるものが描かれていません。
ですから、上記のような可能性について言及するに留めているものと思います。
「熈代勝覧」にもっと握り寿司だとわかる絵があるとおもしろかったのではないと思いました。