先日の「神田散歩」でも江戸検を受検される方々とお話しましたが、皆さん、一生懸命準備しているようで、ぜひ頑張ってほしいと強く思いました。
受検される皆さん、あと一週間、フルに頑張ってください。
江戸検まで、あと一週間ありますので、「江戸の食文化」に関することで、今まで書いてきてないことについて極力書いていこうと思います。
今日は、「獣肉」について書いていこうと思います。
江戸時代には、「獣肉」を食べていなかったと多くの思い人が思っています。
江戸検を受検される方はそんなことはないとは思いますが・・・
しかし、江戸時代には、「獣肉」はかなり食べられていました。
両国にある「ももんじや」は、享 保3年(1718)創業の老舗で、いのしし鍋などを食べにいった人もいると思います。この「ももんじや」は、もとは屋号を豊田屋といい、当初「ももんじや豊田屋」と言っていました。それが、明治以降、他の「ももんじや」がなくなったので、「ももんじや」となのったと言われています。
つまり、「ももんじや」というのは獣の肉を商う店の総称だったのです。
ですから、名前からして、獣肉屋が数多く多くあったことを想像させます。
彦根藩では、牛肉の味噌漬けが、堂々と作られていました。
彦根藩では、甲冑づくりに使用する牛皮をつくる際に余った肉を味噌漬けにして食べていました。
これは、ある彦根藩士が『本草綱目』を読んで牛肉を味噌漬けにした食を考案したのだといいます。
味噌漬けは「反本丸(へんぽんがん)」と呼ばれ、滋養強壮に効果のある薬とされていました。
彦根藩では、牛肉の味噌漬けを将軍家や各地の大名への贈り物とし大変喜ばれました。
彦根藩では、水戸藩徳川家にも、牛肉を贈呈していましたが、井伊直弼が藩主になって、牛肉の献上を中止してしまいました。その際に、徳川斉昭が牛肉を所望した手紙が残っているそうです。
徳川斉昭と井伊直弼の仲が悪かったのは、牛肉が原因だったというおもしろい説もあったりします。
8代将軍吉宗は、享保13年(1728)、インド産の白牛が3頭輸入しました。 輸入された白牛は現在の千葉県の嶺岡まで運ばれ、白牛は嶺岡で飼育されました。
そして、白牛から搾った牛乳で「白牛酪」という乳製品を作りました。
「白牛酪」は、乳を煮詰め乾燥させて団子に丸めたもので、現在のバターだという説があります。一方で、よりチーズに近いものともいわれたりしています
始め将軍家に献上品として納められましたが、11代将軍・徳川家斉のときに嶺岡牧場の白牛は70頭までふくれあがり、その一部を江戸に移して白牛酪の製造を始めました。
さらに家斉は医師の桃井桃庵に『白牛酪考』という本を書かせて薬効を一般庶民にも知らせました。
白牛酪は、腎虚、労咳、虚弱用などの薬として使用されていましたが、11代将軍家斉が強壮剤として使用したとも言われています。55人もの子供ができたのは「白牛酪」のおかげかも・・・
朝鮮通信使は、江戸時代を通じて、都合9回来日しました。
朝鮮人は、獣肉を忌避した当時の日本人と異なり、豚や鹿や猪が好物でした。
そのため、朝鮮通信使が来日した際には、猪や鹿の肉の準備が必要でした。
そこで、使節を接待する幕府や大名は猪や鹿を領地の村々に命じて集めていました。
江戸での朝鮮通信使饗応の際には、上野国に上納が命じられました。
捕獲された猪の肉は、利根川を通じて江戸に運ばれました。
また、オランダ商館のあった長崎では、近郊の村では、食用の牛や豚を飼育していました。貝原益軒の「大和本草」では、豚について「長崎に多く養い殺して異国人に売る」と書いてあります。
遠山金四郎の父遠山景晋は長崎奉行を勤めたことがありますが、彼の「続未曾有記」に豚などを飼育し中国人やオランダ人に売っていると書いてあります。
これらの肉類は、外国人に売るだけではなく、日本人も食べていたようで、司馬紅漢もその日記「江漢西遊日記」に、長崎の宿で牛肉を食べたと書いているそうです。
なお、原田先生の「江戸の食文化」の重要事項一覧は次からダウンロードできますので、改めてご案内します。
『江戸の食文化』重要事項一覧ダウンロード

