今回は、直前ということもありますので、難解問題は避けて出題したつもりですが、結果はいかがだったでしょうか?
1、 ②銀
日本橋の「にんべん」には、商品切手の復刻したものが店内に展示してありますので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。(右写真)
「大江戸老舗物語」の「日本橋散歩」にご参加された方は、「にんべん」の担当者が説明されていたので、よく御存じだと思います。
なぜ、金でなく銀を使用したかと説明はありませんが、金だと価値が高いため商品切手の大きさが小さくなりすぎること、銅や紙では価値がなさずぎること、上方は銀使いで「にんべん」は上方出身の商人であることなどを配慮したのではないかと個人的に推測しています。
2、 ④茗荷屋
江戸の有名料亭は数が多く、どの料亭が重要かということは本によって違っているので、どの料亭名を覚えるか迷うところです。
「博覧強記」に222ページに紹介されている料亭は、覚えておくとよいと思います。
私がマーカーで印をつけたのは、洲崎升屋、深川八幡宮二軒茶屋、真崎甲子屋、葛西太郎、深川の平清、王子の扇屋、浅草大音寺の田川屋、柳橋の万八楼、そして八百善です。
この問題は、「博覧強記」で紹介されている料亭の他に、『江戸の食文化』に掲載されている料亭は覚えておく必要があると思い、「茗荷屋」を出題しました。
3、 ③3代家光
佃煮が佃島で考案されたということは多くの人がご存知だと思います。
しかし、佃島が埋立てられた人工の島で3代将軍の正保年間に築かれたということ等を初めて知るという方もいるかと思い、これを覚えておいていただこうとして出題しましたが、簡単な問題だったと思います。
5、 ③新肴場
延宝2年には、日本橋魚河岸の締めつけに耐えかねた武州・相州の漁民たちが立ち上がり幕府に訴願した結果、楓川沿いの本材木町一丁目、二丁目に「新肴場」が開設されます。
そして、「新肴場」は毎月10日までの江戸城の御用を承り、日本橋魚市場は、11日から30日までの御用を承るようになりました。
この事情を知らなくても、江戸三大魚市場が、日本橋魚市場、新肴場、四日市の三市場であることがわかれば、ある程度推測がついたことと思います。
5、 ④キノエネ
「最上醤油」と認められた七銘柄の醤油をすべて覚えておくべきだと思っています。
そこで、その確認のための出題です。
七銘柄のうち三銘柄は、現在も「ヒゲタ」「ヤマサ」「キッコーマン」として存続しています。
その他の銘柄も銘柄としては存続していませんが、上記三社と合併して存続しています。
すなわち、「ジガミサ」は「ヒゲタ」に、「ヤマジュウ」は「ヤマサ」に、「ジュウジュウ」と「キハク」は「キッコーマン」と一緒になっています。
「キノエネ」は現在も存続している有力醤油メーカーですが、惜しいことに「最上醤油」ではありませんでした。
6、 ①みかん
この問題のポイントは、「鞴」の漢字が読めるかどうかです。「ふいご」と読みます。
実際の試験ではフリガナがふられるかもしれませんが、『江戸の食文化』にはフリガナがふられていませんでしたので、あえてフリガナをふりませんでした。
鞴(ふいご)祭りということがわかれば、みかんという答えは簡単だと思います。
なお、鞴祭りになぜみかんをまくかというと、鞴は天から降ってきたのだそうですが、天から降ってきて際にみかんの木にひっかかったという伝承があるそうです。
そのため、みかんをまくそうです。
7、 ②万宝料理秘密箱
「百珍物」といわれる本にどんな本があるかは、すべて記憶して方がよい考えます。
「百珍物」は、玉子百珍以外は食材名が付されていますので覚えやすいと思います。「玉子百珍」と呼ばれる本だけ「玉子」が使用されていませんので、それを確認するために出題しました。
ちなみに百珍物と呼ばれる物を挙げておきます。
「豆腐百珍」 天明2年(1782)
「鯛百珍料理秘密箱」天明5年(1785)
「大根一式料理秘密箱」(大根百珍)天明5年(1785)
「柚珍(ゆちん)秘密箱」(柚百珍)天明5年(1785)
「万宝料理秘密箱」(玉子百珍)天明5年(1785)
「甘藷百珍」寛政元年(1789)
「海鰻百珍」寛政7年(1795)
8、 ①笹の葉で包む
この問題は、『江戸の食文化』には全くふれられていません。
山田順子氏の「江戸グルメ誕生」に触れられている事項です。
「鮮魚(なま)街道」については、松戸市のホームページでも紹介されていますが、利根川沿いの布佐河岸と江戸川沿いの松戸河岸を結ぶ街道です。
笹の葉には、殺菌効果があるそうです。笹巻けぬきすしを訪れた際に、笹を巻く理由を尋ねた際に教えていただきました。
笹を寿司に巻く程度であればそれほど驚きませんが、鮮魚を輸送する際にも利用されたとすると笹の葉の殺菌効果はかなりあるものと思われます。
9、 ③信州味噌
選択肢とした味噌は、八丁味噌以外は『江戸の食文化』に掲載されていますが、「仙台味噌」は、江戸の仙台藩下屋敷で作られて江戸っ子に人気の味噌でした。八丁味噌は、三河の味噌ですので、三河出身の人にとっては馴染のある味噌です。そして、西京味噌も、上方から輸送されてきていました。
これらの味噌は、江戸っ子にとってなじみのある味噌でした。
信州味噌は、現在では、関東でかなりのシェアを誇っていて、今の私たちにとっては大変なじみのある味噌です。
しかし、これほど信州味噌が食べられるようになったのは、大正時代以降です。
大正12年の関東大震災で、江戸の味噌メーカーが壊滅的打撃を受けた際に、長野県から救援物資として送られてきたのが信州味噌です。これ以降、東京でなじみの味噌となりました。
また、江戸甘味噌は、米の使用量が多いため、戦時中の食料統制の中で、製造が禁止されました。そのため、江戸甘味噌に代わる味噌として信州味噌が食べられるようになりました。
10、 ②内桜田門
下馬から先には、大名・旗本の一部の供侍しか江戸城に登城できませんでした。
その他の供侍は、大名らが戻るまで、下馬先で待っていました。
この人たちを対象に屋台が出ました。
下馬という場合、「大手門」、「西の丸大手門」、「内桜田門」を指すことが多いのですが、「江戸の食文化」では、「大手門」と「内桜田門」の二つを下馬としています。
なお、「内桜田門」は「桔梗門」と呼ばれることが多く、単に「桜田門」と言った場合は、「外桜田門」を指しました。

