江戸検を受検されうる皆様、試験準備で大変だと思いますが是非頑張ってください。
今日も「江戸の食文化」関連で、魚についてもろもろの事を書いてみます。
江戸時代には、食品の上下がはっきりしていました。
魚介類も上下の格付けがはっきりしていました。
上魚は、鯛、鯉、鰭白(はたしろ)、鮒、鮭、鱒、鰆(さわら)、鮟鱇(あんこう)、石鰈(いしかれい)、甘鯛、鱚(きす)、細魚(さより)、鮎、白魚、 生鱈があげられています。
活鯛屋敷
魚の中で、鯛が最上等とされています。
そのため、鯛は、江戸城でめでたいことが起こるとその食膳にのぼるため、多くの需要が生じます。
例えば、慶長9年の家光が誕生した際には、200匹の鯛を納入するように言われたと言います。また時代が下がって、天保8年の徳川家慶の12代将軍就任の祝宴には500匹の鯛が準備されたそうです。
こうした多数の鯛需要に応えるため、日本橋のすぐ下流にある江戸橋の近くに「活鯛屋敷」があり、中には大きな生簀(いけす)がありました。
これは、日本橋の本小田原町に住んでいた大和屋助五郎が作り上げたものです。
助五郎は、駿州地方の各浦を回って漁民と契約をし、かれらに仕入金を貸付けた上で、その浦々に活鯛場を設けました。そして、そこの鯛を日本橋に送らせるようにしたのです。
荒川の鯉が上等
鯛が最高の魚となる以前は。鯉が最高ランクの魚だったことはご存知の方が多いと思います。
その鯉ですが、三田村鳶魚の「江戸の食生活」によると、江戸では、隅田川の鯉が珍重されたようです。
「江戸の食生活」による、寛保の「江戸往来」には「浅草鯉」と出たいて、享和の「東わらは」という本には「荒川鯉」と出ててくるそうです。
向島の料亭「葛西太郎」が「鯉料理」で有名であったのは、この隅田川の鯉を料理していたからなんですね。
なお、両国橋の少し上流に「百本杭」という場所がありましたが、三田村鳶魚の時代まで、「百本杭」で鯉が捕れて、その鯉が東京で一番上等だったそうです。
水戸藩は鮟鱇を献上していた
先日の神田散歩では「いせ源」で「鮟鱇のつるし切り」を見させていただきましたが、その際、参加者の皆さんに「江戸時代、将軍はあんこうを食べたと思いますか」という質問をしてみました。すると多くの方が「食べなかった」という回答でした。
鮟鱇の姿から想像して、そう思った方が多かったようです。
しかし、将軍は鮟鱇を食べていたと思います。
それは、いくつかの大名が将軍家に鮟鱇を献上しているからです。
文化元年の「武鑑」を見ると、御三家の一つ水戸徳川家から11月に鮟鱇が献上された記録が残っています。
また、磐城平藩安藤家から12月に鮟鱇が献上されています。
鮪の別名は「しび」
最後に江戸時代には下魚とされていたマグロについて書きます。
現在では、鮪は魚の中で最高級品ですが、江戸の人は鮪を嫌ったそうです。
なぜ、鮪が嫌われてかというと松下幸子先生によると「まぐろは『しび』という別名と油の多いことから嫌われた」と書いています。
また、八百善の10代目栗山善四郎は、「昔の人は、マグロを『しび』と呼んでいたました。それを、駄洒落で死ぬ日とひっかけて『死日』と言った。だから、嫌われました。それと、姿が良くなかった。マグロは銚子沖で取れていました。それを江戸まで、荷車に乗せて、水をかけながら江戸の市中を運んでいました。マグロは大きく、200キロぐらいある。それがドザエモンにそっくりなので、すごく嫌わていたそうです。」と語っています。

