今日は、8問から14問までについて解説します。
今日は、ちょっと長いのですがご容赦ください。
15、松江藩主松平宗衍父子や各藩の留守居役に贔屓にされた高級料理屋はどれか?(初級レベル)
正解は升屋です。
「江戸の食文化」の140ページに、問題文に書かれた内容で「升屋」の説明がされています。
「江戸の食文化」を読まれている方は、選択肢をすべて見なくても正解はすぐにわかったことだと思います。
また、升屋は江戸の高級料理屋を語る際には、八百善と並べて語られる有名な料理屋ですので多くの方がわかっただろうと思います。そこで初級レベルとしました。
山東京山の「蜘蛛の糸巻」の料理茶屋の項に
「雲州の御隠居南海殿、おなじく御当主の御次男雪川殿、しばしば爰に遊び給へり。此両殿は、其比の大名の通人なり。雪川殿のかくし紋、川といふ字の羽織、名あるたいこ持ちは着ざるはなし。升屋祝阿弥、件のごとき大家ゆえ、諸家の留守居者の振舞という事、みな升屋を定席とせり。其繁昌、今比すべきなし。」
と書かれています。
なお、南海公とは松江藩6代藩主松平宗衍(むねのぶ)で、雪川(せっせん)殿とは宗衍の子供衍親(のぶちか)で、松平治郷(はるさと)つまり松平不昧(ふまい)の弟です。
16、両国の小松屋で売っていた店主の女房が吉原勤めをしていたときの源氏名を冠した餅の名前は何というか?(上級レベル)
この正解は「幾代餅」です。
これは、江戸検前日の記事 「江戸の名物お菓子いろいろ」 で書いた事項です。この記事を読んでいた方はすぐに解ったと思います。
この「幾代餅」は、江戸の名物として有名な餅ですので、結構多くの人がご存知だとは思います。
しかし、後半部分の根岸鎮衛の「耳袋」の話までご存知の方は少なく、この話があるがゆえに答えを迷った面もあると思われます。
そこで、上級レベルとしました。
ちなみに、「幾代餅」については大久保洋子先生の「江戸っ子は何を食べていたか」にも書かれています。
そこには、「耳袋」の話題についても触れて書かれています。
17、遠隔地から運ばれた鰻は何と呼ばれたか? (初級レベル)
正解は「旅鰻」です。
これは、「江戸の食文化」の131ページに書かれていますし、鰻に関する話としてよく出てくる内容ですので、初級レベルとしました。
18、守貞謾稿に載っている右の振売りは、何を売る振売りか?(上級レベル)
正解は、「飴売り」です。
江戸検では、守貞謾稿からは常時出題されていますので、江戸検を受検する際にはよく勉強したほうがよいと思います。
しかし、守貞謾稿は多くの事が書かれていて、これをマスターするのは至難の業であるのも事実です。
それでも、江戸検を受検する人は、少しづつ修得しておくべきだと思います。
今回は、「生業」と「食」は要チェック項目だと考えていましたが、案の定、生業の中の振売りから出題されましたね。
出題された絵は、岩波新書「近世風俗志(守貞謾稿)」の一の267ページに載っています。
「飴売り」の説明は265ページに載っていて、次のように書かれています。
「江戸に一種、毎時不易の飴売りあり。今これを図す。売辞に、「下り下り」と云ふ。もと京坂より贈り下すの矯(かこつ)けか。また、因みに曰ふ。江戸飴店には必ず渦を描けり。今担ひ売りにもこれを描くものあり。」
しかし、なぜ、飴売りの看板に渦巻の絵が描かれているのかは説明されていません。
19、大田南畝が長崎奉行所に勤務していた時に、オランダ人から勧められて、「味ふるに堪えず」と酷評した飲み物は何か?(上級レベル)
この問題も超難問ですが、良い問題だと思います。
正解は「コーヒー」です。
大田南畝といえば、超有名人で、江戸検一級を受ける人で、名前を知らない人はいないと思います。
しかし、多くの人が知っている大田南畝は、狂歌などで有名な文人としての大田南畝だろうと思います。
しかし、大田南畝は46歳で学問吟味に首席で合格し、48歳で勘定奉行所の支配勘定となってからは、文人としてよりも役人として75歳までの生涯を送っています。
つまり、大田南畝は、人生の前半は文人であり、後半生は役人として過ごしたのです。
その役人としての大田南畝は、53歳からの約一年間を大阪銅座に勤めていますし、 56歳からの約一年間は長崎奉行所で勤務しています。この長崎奉行所時代にはロシア使節のレザノフにも面会しています。
大田南畝が、その長崎奉行所で経験した一つがコーヒーを飲んだことです。
このことは、かなり有名で、吉川弘文社の人物叢書「大田南畝」にも、大田南畝が長崎でコーヒーを飲んだことが載っています。
この問題は、大田南畝が長崎奉行所に勤務していた事実を知らないと戸惑う問題であり、大田南畝の生涯を知る切っ掛けとなる良い問題だと考えます。
そして、大田南畝自身は「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」(大田南畝全集所載)に次のように書いています。 なお、「瓊浦(けいほ)」は長崎の美称です。
「紅毛船にてカウヒイといふものを勧む。豆を黒く煎りて粉にし、白糖を和したるもの也。焦げくさくして味ふるに堪ず。」
続いて、「ゼネイフルといふ酒は、松の子をもて製したり。」と書いています。
「ゼネイフル」は、現代でいうジンですが、大田南畝は、コーヒーのほかにジンも勧められたようです。しかし、ジンについての批評は特に記載されていません。
また、シーボルトは、「江戸参府紀行」(東洋文庫:平凡社発行)の中で、つぎのように書いています。
日本人が二世紀以上も前から世界の最初のコーヒー商人と交易しながら、ただ暖かい飲み物だけを飲み、社交的な共同生活を大変好んでいる彼らの間で、この飲み物が流行しなかったのは、実に不思議なことである。(2月28日の項)
20、百川が、安政元年に、江戸でそれまで一般でなかった方法で料理を提供したが、どんな方法か?(上級レベル)
これの正解は「膳に代えて、座卓で料理を提供した」です。
百川が座卓(テーブル)で膳を出したことについての典拠を探しましたところ、現時点では「日本食生活史年表」(西東秋男著:楽游書房発行)に載っているものが見つかりました。
「日本食生活史年表」の嘉永7年の項に、次のように書かれています。
なお、嘉永7年は11月に改元して安政元年となっています。
「料理屋百川、江戸で初めてテーブル(座卓)で料理を給す」
これは、元香川県明善短期大学学長(農学博士・管理栄養士)の川染先生も典拠とされているので、相応に信頼できる本だと思いますが、年表形式ですので元々の典拠もあると思われますので、はっきりした場合には後日、追記したいと思います。
この問題も結構難問だと思いますが、「江戸の食文化」81ページには、ペリー来航の際に、百川が饗応の膳を準備したことが書かれていて、「幕府がテーブルで料理を提供したのは、この時が初めてだった」とも書かれています。
そのため、この部分を読んでいる人は、これを材料に、「座卓で料理を提供した」という正解が比較的容易に推測できたのではないかと思います。
しかし「江戸の食文化」では図版のコメントとして書かれているので、読み落とした人も多いだろうと考え、上級レベルとしました。
以上、「江戸の食文化」に関する問題20問について解説しました。
私の思うところで問題解説やレベル判定を書かせてもらいました。
お読みいただいた皆様には違うなと思うところもあるかもしれませんが、そうした点はご容赦いただければ幸いです。
最後に、参考図書とされていた「江戸の食文化」(原田信男編)との関係を見てみます。
「江戸の食文化」と関連して出題された問題は、私が数えたところでは、全問20問のうち10問あります。
第2問、第3問、第4問、第5問、第7問、第9問、
第13問、第15問、第17問、第20問 です。
この割合が、適切な割合がどうかということについての評価は難しいところですが、少なくとも「江戸の食文化」をよく読んでいれば、10問についての関連する情報は得られたことになります。
江戸検のお題「江戸の食文化」の範囲は非常に広いと感じた人が多かったと思います。そのため、どの本を読んだら良いかと苦心した上でいろいろな本を読まれたと思います。
しかし、どの本を読んでも、その本から江戸検に出題された問題について5割もの割合で触れてある本はないと思います。
こう考えると、お題を解くうえでも、やはり参考図書が最も大切という結論になるとと思います。