六義園の正門は南側にあるのでJR山手線の駒込駅から約10分かかります。
駒込駅近くに染井門がありますが、こちら春と秋の一時期開くだけですので、染井門からは入場できませんのでご注意ください。
右写真が六義園の正門です。六義園は、皆さんよく御存知の通り、柳沢吉保が作った庭園です。
柳沢吉保は、元禄8年(1695年)に従来加賀藩前田家のものであった屋敷を拝領し下屋敷としました。ここに、7年間かけて元禄15年に完成した庭園が六義園です。
現在、広さは、約3万坪あります。
六義園の名前の由来ですが、六義という言葉は、少し難しいので森守著「六義園」から引用させていただきます。
この六義とは、詩道の根本を構成する「体」のことで、賦(ふ)、比(ひ)、興(きょう)、風(ふう)、雅(が)、頌(しょう)をいう。
それは、
賦(ふ)とは、感想をそのまま述べたもの
比(ひ)とは、例をとって感想を述べたもの
興(きょう)とは、外の物にふれて感想を述べたもの
風(ふう)とは、民間で行われる歌謡
雅(が)とは、朝廷でうたわれる雅な歌
頌(しょう)とは、祖先を讃える歌
以上が、詩経大序にいう六種の分類で、これが和歌になると、「そえ歌」「かぞえ歌」「なずらえ歌」「たとえ歌」「ただごと歌」「いわい歌」の六体となり、これは紀貫之が前の詩の六体を転用して、古今和歌集の序において述べたものと言われている。
引用は以上です。
現在は、音読みで「りくぎえん」と呼ばれていますが、六義園が作られた際には、柳沢吉保は日本風に「むくさのその」と呼んでいました。また、六義園には建物もありましたが、そちらは「六義館」と書いて「むくさのたち」と読ませています。
柳沢吉保が没して、2代藩主の吉里から3代藩主信鴻の時代には、六義園はあまり利用されませんでしたが、管理はしっかり行われていたようです。
そして、3代藩主信鴻は、隠居後、六義園を住まいとしたので、信鴻の時代は、かなり整備されました。
しかし、その後、また六義園は荒れたため、四代保光が修復しています。
その後、明治維新まで、大和郡山藩柳沢家の下屋敷として維持されてきましたが、明治になって、新政府に上地されました。
明治初期の六義園がどうであったか詳しい資料はないようです。
明治11年に付近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに三菱グループの創始者岩崎弥太郎が手に入れました。
その後、弥太郎の長男の岩崎久弥の本邸として一時期使用されていたこともありました。
そして、昭和13年4月岩崎久弥氏から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。

