今日は六義園の二回目です。
今日は、六義園を造った柳沢吉保について書いておきます。
六義園に入るとサービスセンターの北側に、説明板があり、そこに柳沢吉保の肖像画の複製が貼られています。(右下写真)
これは元禄15年に幕府御用絵師の狩野派の狩野常信(つねのぶ)が描いたものです。 柳沢吉保が自ら「賛」を入れています。
汝是我我非汝 何用分仮分真 腰佩金剛宝劍 掃退野鬼閑神
柳沢吉保が権勢の絶頂期にある時期に描かれたもので、自分で「賛」を入れていますので、柳沢吉保の当時の姿を描いているものと思われます。
この肖像画を見ますと、ドラマでは、優男として演出されることもある柳沢吉保ですが、意外にも武骨な感じがします。皆さんはどう感じますでしょうか?
さて、柳沢吉保の経歴について書きますが、まず、柳沢家の出身からお話します。
柳沢家は、甲州の出身です。
甲州と言えば、武田家ですが、柳沢氏は、武田家の一門である一条氏の末裔を称しました。つまり、柳沢家は、もとをたどれば武田家にいきつくということになります。
武田家が滅亡した後、武田家の遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれました。
柳沢家では吉保の祖父にあたる信俊が徳川家康に仕官しました。
そして、柳沢吉保が生まれた時、父親安忠は、のちの5代将軍となる徳川綱吉付となっていました。
柳沢吉保は、綱吉にどうして近づいたのかということはあまり語られませんが、お父さんの代から、綱吉に仕えていたのでした。
そして、吉保は、父親の縁で、幼いころから綱吉に仕えるようになったという経緯のようです。
その後、綱吉に一貫して寵愛され、側用人に登用され、大名ともなり、最終的には、大老格まで出世しました。
そして、柳沢家は、武田家の家臣であった者で大名まで出世した一族の代表となりました。
参考に柳沢吉保の経歴を書いておきます。
万治元年(1658) 柳沢吉保が生まれる。
寛文4年(1664)に館林藩主徳川綱吉に初めて謁見する。
延宝3年(1675)家督を相続し、保明(やすあき)と名乗り、綱吉の小姓として仕えた。
延宝8年(1680)、綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられる。
貞享2年(1685)従五位下出羽守に叙任する。
元禄元年(1688)側用人に就任する。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。
元禄4年(169年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。
元禄7年(1694)武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。老中格となる。
元禄8年(1695)駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領する。後にこれが六義園となる。
元禄14年(1701年)将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した。
元禄15年(1702) 六義園完成
宝永元年(1704) 綱吉の後継に甲府宰相の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲府藩主となる。
宝永3年(1706)大老格となる。
宝永6年 (1709)綱吉が薨去。長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、隠居後は江戸本駒込で過ごした。
正徳4年(1714)11月2日、死去した。享年57。

