六義園の中央にあるのが、大泉水と「中の島」です。
その「中の島」の中央にある小山が「妹背山(いもせやま)」と呼ばれています。
古語では、女性のことを「妹(いも)」、男性のことを「背(せ)」と呼びました。
妹背というと、夫婦や兄と妹または姉と弟を言いました。歌舞伎や人形浄瑠璃に「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」という演目をご存知の方もいらっしゃると思います。
中の島の妹背山は男女(夫婦または兄妹)の間柄を表現しているそうです。
六義園のモデルとなった紀州(和歌山県)の和歌の浦には、「妹背山(いもせやま)」のある妹背島が今もあり、「妹背山」といった場合に、和歌の浦の「妹背山」が大変有名です。
「六義園」の「妹背山」は、二つに分けられていて、左の山が妹(いも)山、右側の少し大きいほうが背(せ)山とされています。
やはり、女性の妹(いも)山より、男性の背(せ)山の方が少し大きく作られています。
そして、「妹山」と「背山」の間に大きな石がたっています・
その中央に立つ大きな石は玉笹石と呼ばれていて、六義園八十八境のうちの十六番目に位置づけられています。
石材は紀州青石と呼ばれる石で、名前の通り、いくらか青味がかっています。
この石が「玉笹石」と名付けられているのは次の和歌によるものです。
いもせ山 中に生たる玉ざゝの 一夜のへだて さもぞ露けき
(藤原信実 新撰和歌六帖)
上の和歌で詠まれている通り、「玉笹石」を男女の仲を隔てる笹に見立てる見方もあります。
しかし、それではあまりにも悲しいのでしょう。
別の説明では、「玉笹石」は子宝を表し、子孫繁栄を願っているとも書いてあります。
「六義園」の中の島が見える芝生地に「むくさのたち跡」と書かれた表示板がたてられています。以前、説明した通り、柳沢吉保は、「六義園」と書いて「むくさのその」と呼び、館は「むくさのたち」と呼んでいました。
その「むくさのたち」があった場所です。
もちろん、現在は建物はなく、芝生地となっています。
また、同じく、妹背山が見える芝生地に「心泉(こころのいずみ)跡」と書かれた説明板があります。その場所に、六義園が作られた当初、泉がつくられ、ここから流れ出る水が池の中心部に流れていたので、心の泉と名付けられました。「中心」の「心」を意味しています。
「こころのいずみ」は、現在、なくなっています。
しかし、説明板の南側にある御茶屋が御茶屋が現在は「心泉亭」と書いて「しんんせんてい」と呼ばれています。右写真の奥に写っている建物が「心泉亭」です。
この御茶屋は、岩崎家の建てた物で、当初は「桃の茶屋」と呼ばれていましたが、戦災で焼失し、戦後東京都によって再建された物です。
その御茶屋の名前に「こころのいずみ」が残されています。

