今日は、六義園の西南部にある「滝見の茶屋」周辺について説明します。
昨日、最後に説明した「千鳥橋」の下を流れる小川の上流に「滝見の茶屋」があります。
千鳥橋からですと、通路を一旦戻って、滝見の茶屋へ向かいます。
「滝見の茶屋」は、江戸時代にはありませんでした。岩崎家の時代に作られたようです。
現在の「滝見の茶屋」は、戦災で焼失し、戦後再建されたものです。
「滝見の茶屋」の先の小さな流れを渡ると、流れの先に「水分石」が見えます。日本庭園では、滝口の石組で水を左右に分ける石は「水分石」と呼ばれています。
「水分石」は「みずわけいし」とも「すいぶんせき」とも呼ばれます。
「水分石」により、岩の間から水が流れ落ちた水が二つに分けられて水しぶきをあげています。
また、その先の水が流れ出ている場所は「枕流洞と呼ばれています。
「枕流洞」は、「まくらのほら」とも「しんりゅうどう」とも読まれています。
石の形が「流れに枕をしている形をしていて、下に洞があるため」このような名前が付けられたと言います。
右写真の下部が水分石で、その奥が「枕流洞」です。
「枕流洞」の石組の上には、日本庭園の石組としてよく用いられる「三尊石」がありますが、これは岩崎家の時代に据えられたといわれました。右写真の左下部が「枕流洞」で、その石組の上に岩が、釈迦三尊のように立って配置されているのが「三尊石」です。
この周囲にはほかにも、「六義園八十八境」のうちの「紀川上(きのかわかみ)」「紀路遠山(きじとおやま)」などがあります。
この周辺が、紀ノ川の上流という構想で作られているようです。
右下写真が、滝組の全体写真ですが、「枕流洞」から流れ出る水が、六義園全体の水源となっています。
この水は、玉川上水の分水である千川上水の水が利用されていました。千川上水は、元禄9年(1696)に、寛永寺や浅草寺や湯島の聖堂、さらに下谷・浅草の町家に水を供給するために、徳川綱吉の命により開削されました。
柳沢吉保は、綱吉の寵愛を受けていましたので、「六義園」へ水を導入することも容易であったのではないでしょうか。
ただし、現在では、都営地下鉄三田線の工事によって千川上水からの給水が困難となり、地下水のくみ上げによって維持されています。
柳沢家の3代藩主は、柳沢信鴻ですが、この信鴻は、六義園を隠居所としていました。
この柳沢信鴻が書いた「宴遊日記」には、水分石の樅の木に朱鷺が巣をかけたことが書かれているようです。
現在は、特別天然記念物となってしまった朱鷺が、江戸時代中期には、江戸に営巣をしていたんですね。
さらに、池には、鶴が住みついているとも書かれているようです。
江戸時代の東京も、非常に自然が豊かだったということに驚かざるをえません。

