「六義園」は、江戸時代に柳沢吉保により作庭されたということは案外知られているのですが、明治時代には、岩崎家が所有していたことは意外に知られていないようですので、「六義園」の最後に、岩崎家所有時代の「六義園」について書こうと思います。
徳川幕府が崩壊した際に、六義園がどうなったかについては、詳しい資料がなくて、明確にはわからないそうです。
江戸時代末期の六義園の周辺は、嘉永6年の尾張屋版の切絵図をみると、西側には加賀金沢藩前田家の中屋敷があり、北側には伊勢国津藩藤堂家の下屋敷がありました。明治11年に、六義園付近の前田家・藤堂家の屋敷などとともに、六義園を三菱グループの創始者岩崎弥太郎が手に入れました。
その土地は広大で12万坪超の広さがあったそうです。
藤堂家の下屋敷は、現在の山手線を越えて染井霊園近くまでありました。
側近の人が岩崎弥太郎に「どうするつもりか」と尋ねると、弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもりだ」と答えたそうです。
岩崎弥太郎が、在世中にどのように手を加えたかは明らかではないそうですが、弥太郎の死後、弟の岩崎弥之助は、明治19年に、六義園の修復工事を行っています。
明治38年10月には、日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官東郷平八郎をはじめ6千人の将兵を、岩崎家が招待し、六義園を中心として戦勝祝賀会を開催したそうです。
六義園は、弥太郎の長男の岩崎久弥の本邸として一時期使用されていたこともあったそうですが、少しずつ、土地は売却されていきました。
現在の山手線の駒込駅と山手線の線路の土地は、岩崎家の所有地だった場所ですから、明治43年に、駒込駅が開業するにあたって、岩崎家が売却したものと思われます。そして、昭和13年4月岩崎久弥から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。
六義園の入り口近くの石碑は、その時の記念として建てられたもので、六義園の成り立ちも記されています。右最上段の写真が、記念碑の写真です。
又記念碑近くの大きな門は「内庭大門」と呼ばれ、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。
右写真は、しだれ桜が満開の時に、しだれ桜を背景として写した内大門です。
かつては門をくぐった先のしだれ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があったようですが、現在では、土蔵が残されているだけです。

