本法寺は、東京メトロ「田原町駅」1蕃出口から徒歩2分の至近距離にあります。
本法寺は、天正19年(1591年)に創建された日蓮宗のお寺です。
明暦3年(1657)に起きた明暦の大火(別名振袖火事)の後、現在地に移転したようです。
本法寺は、はなし塚があることで有名ですが、熊谷稲荷と云うお稲荷さんもお祀りされています。
「熊谷稲荷眷属祭り」は、その熊谷稲荷のお祭りです。
熊谷稲荷は、熊谷安左衛門という人がお祀りしたことからこう呼ばれているようです。
熊谷安左衛門は、元は山本安左衛門といい、武田信玄の軍師として有名は山本勘助の甥のようですが、何らかの理由があって熊谷と改姓したそうです。
熊谷安左衛門は、自分が居住していた日本橋大伝馬町片町にあった屋敷神としてお稲荷様を崇めていましたが、ある夜白狐が姿をあらわして、「この稲荷の御利益を世に広めたいので、どうか浅草寺院内に小祠を建てて欲しい」と云って白狐が姿を消したと云われています。
熊谷安左衛門は白狐のお告げにより、寛文5年7月、浅草寺に小さな祠を建立しました。以来熊谷稲荷と呼ばれお参りする人が多くなったそうです。
熊谷安左衛門は宝永4年9月死去し、その菩提寺が本法寺でお墓もあることから、熊谷稲荷も享保年間の頃、本法寺に勧請されたそうです。
「脊属祭り」というお祭りは、あまり聞いたことがありませんが、本法寺では、ホームページで次のように説明しています。
狐を祀った稲荷にも、さまざまな種類があり、そのなかで人間に福徳を分かつ福狐つまり白狐だけが、稲荷明神の御脊属(ごげんぞく)にえらばれる資格があるといわれています。 熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷であることから、他にあまり例をみない脊属大祭を行っていることで知られています。
熊谷稲荷は、火難除け・盗難除けの御利益のあるお稲荷様として厚く信仰されていて、眷属祭りでは、お札も出されるようでが、予約が必要とのことでした。
本法寺には、「はなし塚」もあります。
「はなし塚」は、太平洋戦争に向う状況下で公演が禁止された落語と落語界先輩の霊を弔うために昭和16年に建てられたものです。
太平洋戦争へ向かって戦時色が強まる中で、時局にあわない落語は「禁演落語」とされ、。花柳界、酒、廓などに関する『明烏』や「居残り佐平次」など53種が決められました。
「はなし塚」は、それら名作と落語界の先輩の霊を弔うために建立され、「はなし塚」には禁演となった落語の台本が納められました。
そして、終戦後の昭和21年9月に、「はなし塚」の前で禁演落語復活祭が行われ、埋められた台本が掘り起こされ、逆に戦時中の台本などが納めらました。
現在も、毎年8月31日には、落語芸術協会に所属する落語家や芸人約200人が参列して、「はなし塚まつり 供養法要」が営まれているそうで、今年も8月31日に行われたそうです。
堂内には、その時の写真が掲示されていました。
写真中央には、落語芸術協会の桂歌丸会長も写っていますね。
本法寺は、韮山の代官で、幕末に活躍した江川英龍で有名な江川太郎左衛門家の菩提寺でもあります。
そのため、江川太郎左衛門のお墓もあります。
お墓には「興本院」と刻まれていて、没日が宝暦8年と刻まれています。
江川家は代々「江川太郎左衛門」を名乗っていました。
ここに埋葬されているのは、33代江川太郎左衛門英明です。
江川太郎左衛門英明は、宝暦8年7月28日に江戸でなくなったため、本法寺に埋葬されたようです。
ちなみに江川太郎左衛門家英龍は36代ですので、英龍の曽祖父ということになります。
江川太郎左衛門英龍のお墓は、韮山の菩提寺本立寺にあるとのことです。
赤字が本法寺です。熊谷稲荷は、境内入り口にあります。