これは、津本陽氏が書いた物です。
「松風の人」は、吉田松陰の一生を書いたものですが、吉田松陰の手紙や書いた物などを津本氏が現代語訳したものを多く使用しています。
松陰自身の手紙などにより、吉田松陰の姿を、読者に際立たせようとしているように思います。
この本を読むと、吉田松陰が多くの手紙などを残していると感じます。
この本を読んで、私自身、新たに確認できたことがあります。
それは、安政の大獄が始まり、江戸に召喚された吉田松陰が、嫌疑がかかっていなかった老中間部詮勝の殺害計画をやすやすとしゃべった理由です。
吉田松陰が召喚されたのは、主に梅田雲浜との関係からでした。
そして、江戸の評定所で、吉田松陰に問いただされたのは、梅田雲浜とどのような密議をしたかたということと、京の御所にあった落し文を書いたのが松陰ではないかという2点でした。
これらについて、吉田松陰は、申開きをし、幕府の疑念は解消されました。
その後で、吉田松陰は、老中間部詮勝を殺害しようとしたことを、聞かれもしないのにしゃべってしまったのです。
これを聞いた奉行たちは、大変驚き、松陰は、その場で小伝馬町牢屋敷入りを命じられます。
そして、このことが、吉田松陰の命を縮めることになったのです。
松陰が自白をする事情について、「世に棲む日日」で、司馬遼太郎氏は次のように書いています。
(松陰は)かれがやったり企てたりした反幕府活動のいっさいを語った。
あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。
松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。
司馬遼太郎氏によれば、吉田松陰が、間部詮勝殺害計画を自白したのは、吉田松陰の欠点によるものだとしています。
しかし、津本陽氏は、吉田松陰は、死を覚悟して、自白したといっています。
津本陽氏は、松陰が間部詮勝殺害計画を自白した事情を次のように書いています。
幕府の松陰に対する嫌疑は、すべて氷解した。このままひきさがれば、松陰はふたたび萩に帰ることができる。
だが松陰の身中で、憂国の熱情が、突然はじけ、炎を噴いた。
松陰はペリー来航以来の政情につき、詳細に批判を陳べ、日本のとるべき方策につき意見を語りはじめた。その内容は、幕府重職が耳にしてもおどろくほど、海外の事情を網羅していた。
(中略)
松陰はここで口をつむぐべきであった。だが幕府要人に時勢を論じ、よるべき国策を開眼させるべきであると思った。
「僕は死に値する二つの罪を犯しているので、自首いたします」
「それはいかなることか」
松陰は大原三位西下策と老中間部詮勝要諫策をくわだてたこと事実をうちあけた。
(中略)
松陰は奉行たちが彼の意見を聞きとり、天下の大計、当今の急務を知り、一二の措置をすれば、自分は死んでもいいと考えていた。
これを読むと、吉田松陰は、間部詮勝要諫策をしゃべって、それにより死罪となってもよいと、覚悟していたということになります。
私には、「松風の人」に書かれた吉田松陰像のほうが、幕末の志士にふさわしいように感じられました。