久坂玄瑞は、高杉晋作と並んで、松下村塾の龍虎と呼ばれる英傑ですが、その人物像は意外に知られていません。
そして、久坂玄瑞を描いた小説もあまり多くありません。そんな中で、「花冠の志士」は、数少ない久坂玄瑞について描いた小説の一つです。
作者の古川薫氏は、直木賞作家ですが、下関で生まれ、山口新聞編集局長の経歴もある方で、吉田松陰に関係する著書も数多く出されています。
先ほど、久坂玄瑞の小説が少ないといいましたが、この「花冠の志士」も1991年に出版されていますが、その後、絶版となっていて、今年9月に再刊された本です。
このように、これまで、あまり知られていなかった久坂玄瑞ですが、今回の大河ドラマでは、「文」の夫ですので、出番が多くなり、かなりスポットライトを浴びるのではないでしょうか。
久坂玄瑞は、萩藩医の久坂良迪の三男として生まれ、幼名「秀三郎」と名付けられました。
両親と兄を幼いうちになくしたため、藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めました。
玄瑞と云うのは、医者としての名前で、後に士分となった際には「義助」と名乗っていますが、玄瑞の方が、はるかに有名です。
久坂玄瑞が吉田松陰に入門したのは、安政4年です。
入門にあたって、松陰と玄瑞との間では、激しい手紙での論争がありました。これは、玄瑞の能力の高さを認めた松陰が、大いに鍛えてやろうという考えがあったためだったそうです。
そして、松陰は、久坂玄瑞を見込んで、妹の文の夫にと望むようになります。
「花冠の志士」では、文が玄瑞を慕う場面もあり、この話を受けるかどうか迷う玄瑞の姿も描かれています。
このあたり、「花燃ゆ」でどう描かれるのか、楽しみの一つです。
そして、松陰の申し出を受けた玄瑞は、文と結婚し杉家に同居するようになります。
その後、久坂玄瑞は、江戸に遊学した後、萩に戻ります。
そして、吉田松陰の江戸檻送の際には、萩で松陰を見送ります。
江戸へ松陰を送るように幕府の命令が届いた後の場面で、古川薫氏は次のように書いていま
玄瑞は、やはり松陰をけしかけている自分を意識している。同じ助からないものなら、卑屈に遁れる努力をすることもあるまいという気持ちが、そういわせたのである。
きびしい訊問を用意して待ち構える幕吏の前に、意を決して歩みよろうとしている松陰の背を、後ろから突き出す思いがあった。
松陰が、評定所で必ずしも自白するまでもなかった間部暗殺計画を公言し、そのために死罪になったということを、後日玄瑞らは知るのである。
松陰の刑死後、その門下生たちが、まるで師のあとを追うように死を急いだのは、このようないきさつも手伝っていたにちがいない。少なくとも玄瑞は、そうだった。
この古川薫氏が書いている通り、久坂玄瑞は、吉田松陰が刑死した6年後、元治元年(1864)に起きた蛤御門の変で敗れ、鷹司邸で自刃をして果てます。
享年25歳でした。
「花冠の志士」には、勝ち目のない戦いに出撃する事情も描かれています。
「花冠の志士」には、久坂玄瑞の唯一人の子供秀次郎を生んだ「タツ」との恋愛などまだまだおもしろい場面があります。
350ページ程の分量で、久坂玄瑞の生涯がわかる読みやすい本ですので、大河ドラマ「花燃ゆ」にご興味のある方にはおすすめの本だと思います。

