今日は、古川薫氏著「吉田松陰の恋」です。
これは、同名で文春文庫から出版されていますが、その中の短編ですので、短時間で読み切れます。
吉田松陰は、数多くの手紙や著述を残しますが、女性の影が見えないと言われています。司馬遼太郎氏は、「世に棲む日日」の中で「筆者はこの小説松陰のくだりを書きつづけ、女性の登場がきわめてすくないことに筆者自身ときにぼう然とする思いがある・・・・」
と書いています。
こうした女性とのつきあいがほとんどなかった吉田松陰の交際関係の中で、唯一例外といえるのが、萩の野山獄で知り合った「高須久子」です。
「吉田松陰の恋」は、この数少ない吉田松陰の恋愛を真正面から取り上げた小説で、高須久子が一人称で、松陰との出会いから別れまで語る内容となっています。
高須久子は、野山獄に収監された罪人の中で唯一の女性でした。
松陰より一回り上で、安政元年12月に松陰が入獄した時に37歳でした。
長いこと収監されていた人々は生気がなくなっていきますが、松陰は、獄の中で勉強会や句会を開き、野山獄の淀んだ雰囲気を一変させます。
そうした中で、高須久子は、次第に松陰に魅かれていきます。松陰も高須久子を慕うようになります。
しかし、獄内であり、周りの人々の眼もあり、はっきりとその意思を表すことはできず、吉田松陰は、安政2年12月に野山獄を出獄することになります。
出獄の前夜、囚人一同で送別の句会が開かれます。
その際に、高須久子が送った句が次の句です。
鴫(しぎ)たって あと淋しさの 夜明けかな
実は、吉田松陰は、「松陰」という号のほか、「子義(しぎ)」という号を持っていました。
これがわかると、この句の意味は明瞭です。
「吉田松陰の恋」の中では、次のように高須久子に語らせています。
鴫は、寅次郎様のもう一つの号が「子義」であることに思いつき、ひそかに准(なぞら)えたものです。
3年後の安政5年12月、吉田松陰は、野山獄に再入獄します。
そして、高須久子と再会します。
しかし、二回目の野山獄での生活は、短いものでした。
吉田松陰は、安政6年5月 江戸に送られることになりました。
送られる前々夜、高須久子は手布巾(てふきん)を松陰に送ります。
翌日、吉田松陰は、高須久子に歌を返します。
「吉田松陰の恋」では、次のように描かれています。
午すぎ、房の前を通りかかったというふりをして、「高須さん。これを・・」と、一枚の紙片を格子の間から、寅次郎様が差し出されました。「高須うしのせんべつとありて汗ふきをおくられければ」と前詞して、歌が書きとめてありました。
箱根山 超すとき汗の出やせん 君を思ひて ぬぐい清めむ
そして、いよいよ、吉田松陰が江戸に送られる日、高須久子は次の句をおくります。
手のとはぬ雲に 樗(おうち)の 咲く日かな
「とはぬ」とは「届かない」という意味です。「樗(おうち)」は「せんだん」という木の古い名前です。
「せんだん」は、「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳( かんば)し」のことわざでよく知られています。
右写真が、「せんだんの花」です。
これに対して、吉田松陰が高須久子に渡した句が次の句です。
一声を いかで忘れん ほととぎす
これについての「吉田松陰の恋」の中では、高須久子は何も語っていません。
しかし、北海道大学教授田中彰氏著の「松陰と女囚と明治維新」の中に、詳しく書かれています。ちょっと長くなりますが引用します。
ここにいう「郭公(ほととぎす)」は松陰自身とみてよい。(中略)いま、永遠の別れとなるかもしれぬ別離の際の「汗ふき」に久子の心をみた松陰が、ほととぎすに己れを託し、「一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)」といいきったのは、いかにも鮮烈な愛の表出ではないか。獄中に苦悩する松陰と久子との間に、お互いに通ずるものがなかったならば、この一句があろうはずはない。
久子にとって松陰は、所詮、手の届かぬ雲に映えてさく樗(おうち)であり、それだけ思いはつのったのであろうし、いま江戸送りを前にした松陰にとっての久子は、おのれの汗を女の心の「汗ふき」ににじませて、男としての愛の昇華をはかる以外に手立てのなかった存在だったのであろう。それだけに「一声をいかで忘れん郭公」はかつて久子が松陰に与えたあの「鴫たってあと淋しさの夜明けかな」の一句への万感の思いをこめた返句のように思えてならない。
「花燃ゆ」では、高須久子は、井川遥が演じるようです。
なお、「世に棲む日日」では、司馬遼太郎氏は、「一声をいかで忘れんほととぎす」を高須久子の句としています。

