今年一年間ブログをご愛読いただきありがとうございました。
今年一年は、大変うれしいことが多い一年でした。
うれしいことの一つが「江戸」を通じて大勢の人とお目にかかることができたことです。
春と秋の老舗めぐりと名園散歩、夏の江戸検講座、そして年末の江戸検交流会などを通じて、多くの方と知り合うことができました。
初めてお会いした多くの人は、このブログを読んでいる方でした。
そのため、ブログを読んでいる方と直接交流を図ることができました。
そして、ブログの力を感じ、ブログを書いてきてよかったと感じた年でした。
このブログをお読みいただいてる皆様そしてお会いできた皆様に改めて心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
今年最後の話題は「江戸城の門松」のお話です。
先日、「江戸の歳事」の参考書として紹介した『江戸年中行事図聚 (中公文庫) 』、『江戸の庶民生活・行事事典』の本文で引用され、『東都歳時記』の解説でも引用されているのが、四代目歌川広重を称した菊池貴一郎が書いた『絵本江戸風俗往来 』です。
江戸検を受けられる方は、機会がありましたら、「絵本江戸風俗往来」の正月と12月の欄に書かれている門松の項を読んでみてください。
江戸では、江戸城から大名屋敷や町家まで広く門松を立てました。【江戸城での松飾り】
「絵本江戸風俗往来」には、江戸城で飾られる松飾りについても説明されています。
江戸城の城門をはじめ幕府関係の松飾りは、葉なしの竹に松をそえて立てました。
そして、竹の先端を斜めに鋭く切り、切り口を表に向けて、根元にそえた松を縄で巻きつけたものです。
こうした門松となったのは、徳川家康が武田信玄と三方ケ原で戦って敗北し浜松城で正月を迎えた時の故事によるものです。
これについて『絵本江戸風俗往来』」に詳しく書かれています。
『将軍家御城内外36の見附御門、正月松の御飾りはまことに御手軽きものなり。而して芝ならびに上野の両御廟、且つ聖堂を始め、御蔵その外、浜御殿等、ことごとく同様なる御松飾りなり。但し両御霊廟ニは、〆(しめ)に海老を用いず。竹は葉なしして竿に同じ。穂先を切り、松をそえる。松の根回りへ4本の杭を打ち並べて、大縄にて松の根をつなぎ固めたり。
この恒例は天正・元亀の頃、神君浜松御在城のみぎり、甲斐の武田信玄と御合戦遊ばされ候節、敵方歳旦の発句に「松かれて 竹たぐひなき あした哉」と認め送り越し候処、御前になお、酒井左衛門尉詰め合わせ罷り在り、左様にてあるまじく間違いとて、「松かれで武田首なき旦かな」と称しまいらす。その時の戦、御運えたもうより御吉例と相成るよし。』
【濁点のつけ方で意味が変わる】
武田方から贈られてきた最初の句は
「松枯れて 竹たぐひなき あした哉 」 です。
「松」は松平を,「竹」は武田をさしています。従って、この句は、「松平が滅んで 武田が栄えるよき年の始めだなぁ」いう意味です。
これに対して酒井忠次が返した句は、
「松枯れで 武田首なき あした哉」 です。
これは、「松平は滅びず 武田信玄の首がとぶ、なんともめでたい年の始めだなぁ」という意味です。
ひらがなで書くと次のようになります。
まつかれて たけ たぐひなき あしたかな
まつかれで たけだ くびなき あしたかな
徳川四天王の一人酒井忠次の知恵で、句の中のたった3文字を「て⇒で、た⇒だ、ぐ⇒く」というように濁点を付けたりとったりしただけで意味がすっかり変わりました。
【門松の竹は斜め切り】 現在、関東では、門松の竹の先端は斜めに切り落とされているのが普通です。
しかし、もともとは 門松には、竹の頭の切り口が平らなものと斜めのものと二つの型があったようです。
徳川家では、浜松城の故事により、門松の竹の頭は「斜め切り」としていました。
これにより、徳川家康が江戸開幕後、関東ではこの型の門松が定着したとのことです。
皆さま 良いお年をお迎えください。

