明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は1月から5月にかけて毎日文化センターの「吉田松陰ゆかりの地を行く」講座があり、その間の2月には江戸楽アカデミーの講座があります。
共に、1週間あまりで定員に達してしまう状況ですので、正月早々から準備に力を入れていこうと思っている次第です。また、昨年は、江戸検を受検される方の仲間の輪も大きく広がりました。
このブログを読んでいただいた「あかのたにんさん」が昨年の江戸検1級に合格されたので、今年こそ、この仲間の輪の中から朗報が聞かれればよいなぁと思っています。
年明けから、各寺社に、恒例の初詣にお参りしようと思っています。
例年、東京では、日枝神社、神田神社、湯島天神の各神社のお参りをしています。
これら神社は今年のお題に縁のある神社ですので、受検される方の合格も一緒に祈願してこようと思います。
江戸検を受検される皆様、今年一年のご健闘をお祈りします。
そして、ブログをお読みいただいている皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、平成27年の最初も門松の話題です。
今日は江戸の大名家の門松の話題です。
今日の記事をお読みいただければ、先日の江戸検の過去問の正解もわかります。
先日の問題は改めて書きますと次の通りです。
正月に門前に松を飾ることは、江戸の大名屋敷でも行われていました。しかし、下谷三味線堀にあった出羽国秋田藩佐竹家上屋敷では、屋敷の門前に松飾りに代えて他家では見られない珍しいことをしたため、名物になりました。それは通称、何と呼ばれていたでしょう?
い)梅飾り ろ)竹飾り は)人飾り に)鑓飾り
江戸の庶民は、大名家の松飾りの中で名物は二つあるとと考えていました。
次のような川柳が残されています。
「三味線と鼓は江戸の飾り物」
この川柳の三味線は下谷三味線堀に江戸上屋敷があった佐竹家を表しています。
そして、鼓は佐賀藩鍋島家の「鼓の胴の松飾り」を指しています。
つまり、秋田藩佐竹家と佐賀藩鍋島家の松飾りを江戸っ子は江戸の有名な門松と考えていました。
【三味線と鼓は江戸の飾り物】
それでは、その門松はどんな門松だったのでしょうか。
昨日、紹介した菊池貴一郎の「江戸府内絵本風俗往来」では次のように書いています。
『高20万石5800石余、出羽の久保田の城主佐竹右京大夫殿上屋敷は下谷三味線堀なり、この御門は松飾りは出来(しゅつらい)し給わず。麻上下を着しける武士を御門の左右へ着座せしめ、元旦より七草まで七日の間、時刻交代して勤めさせられけるより、佐竹の人飾りとて、都下正月の名物なり。』
つまり、秋田藩佐竹家の松飾りは「人飾り」と呼ばれていて江戸の名物だったのです。
過去問の正解は「人飾り」です。
そして、佐賀藩鍋島家の「鼓の胴の松飾り」についても次のように説明しています。
『高35万7千石余、肥前佐賀の城主松平肥前守殿江戸御屋敷は、御曲輪山下御門内なり。この御屋敷門飾りは、鼓の胴とて、いとも見事に精選した稲藁(いねわら)をもって、つづみの胴の如く編み作れり。そのくくりたる左右の開き5、6尺とも覚えたり。胴のくくりたる真中へ海老・橙等を結い飾り、松竹に添えて立てられたり。』
【佐竹人飾りの由来】
佐竹家の人飾りがどのようであったかについて、三田村鳶魚の「お大名の松飾り」(『江戸の春秋』)に次のように書かれています。
「佐竹の三味線堀の上屋敷では、元朝から七日まで表門外の敷石の上に、左右二側に足軽三人ずつ、行儀よく立っている。いかなる来賓に対して会釈もせず辞儀もしない、棒立ちに立ったまま、身動きもせずに、往来を見張っている。これが人飾りといって、松飾りの代わりなのであった。勿論、半刻替りというから、今の一時間交替で勤めたのである。」 続いて、三田村宴魚は、佐竹家で人飾りが飾られるようになった経緯にも触れていますが、長くなるので要約します。。
寛永14年(1637年)の天草の乱に佐竹家も出兵しました。
天草の乱は、最初は一揆軍が優勢で幕府軍は苦戦し、討手の発諸大名の軍兵も散々敗北したという噂がひろがりました。
討手として出かけて行った藩では正月の用意どころではなく、佐竹家でも門松もしめ飾りもせず、屋敷の門の外まで足軽を出して一刻も早く音信を得ようとしていました。
そうしていたところ、元日の夕刻になって、思いもよらず一同無事という頼りがあり、やがて主従が堅固で江戸に戻ってきました。
佐竹家では、それ以来、松飾りをしないのが吉例となり、門前に足軽を出しておきました。それが、佐竹の人飾りと呼ばれるようになりました。
以上が三田村宴魚の「お大名の松飾り」に書かれている経緯ですが、もともとは十方庵敬順が文政年間に書いた「遊歴雑記」に書かれていることのようです。
【佐賀藩「鼓の胴の松飾り」の由来】
一方、佐賀藩の「鼓の胴の松飾り」がどういう経緯でできたかを佐賀県庁のホームページから転載します。
『1638(寛永15)年、江戸幕府は西日本の諸大名を総動員し、一気に原城を攻撃し島原の乱を鎮圧した。その勝利のきっかけをつくったのが佐賀藩の一番乗りの武功であった。しかしそのことが逆に軍法違反とされ、同年6月29日鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、謹慎処分を受けることになった。年末を迎えた江戸佐賀藩邸では、正月の松飾りなどをせず、ひっそりと正月の準備をしていた。ところが、年も押し迫った12月29日、突然この謹慎処分が解けた。
質素な正月の準備をしていた鍋島家では、門松などの正月飾りはなく困惑の色を隠せなかった。そこでかねて出入りの荒物屋彦惣に、松などの材料を集めさせ、納屋にあった米俵などの藁とともに、にわかに松飾りを作らせたところ、その松飾りの形が鼓の胴部に似ていたことから「鼓の胴の松飾り」といわれるようになった。
この松飾りは、これを吉例として以後踏襲されることとなり、佐賀でも明治時代までは県庁や市役所でも飾られていたという。』
「鼓の胴の松飾り」は、今も佐賀城本丸歴史館御玄関に平成26年12月21日(土)から平成27年1月15日(水)まで飾られています。
その「鼓の胴の松飾り」の写真が右上です。

