その中に、このブログを読んでいただいている方からもかなりの年賀状をいただきました。
思いがけない方々から年賀状をいただき驚くやら感激するやらでした。
年賀状をいただいた皆様、ありがとうございました。
ブログ上でも御礼申し上げます。
さて、昨日紹介した三田村鳶魚の「お大名の松飾り」には、三味線と鼓の飾りのほかに、特徴のある門松について説明してあります。
それを紹介しておきます。
【将軍家拝領の松飾り】
門松を将軍家から拝領する大名家が一家だけありました。
それは浜町の安藤対馬守です。奥州磐城平、五万石の小大名ですが、ここだけが門松を拝領していました。
その理由は、ある年の大晦日に安藤家の藩祖安藤対馬守重信が、家康と囲碁をしていました。
何度対局しても家康が負けるためお暇がでません。安藤対馬守は、「松飾りをしないといけないので、早く帰らせていただきたい」と申しでました。
それに対して家康が「松飾りは誰かに持たせるからもう一局」と言われました。
そのため、重信は、仕方なくもう一局すると、家康やっと勝ったので屋敷に帰りました。
屋敷に戻ってみるとと立派な飾り松が下されていたといいます。
対馬藩宗家では、松のかわりに椿を使用しました。そのため松飾りでなく椿飾りといわれました。
しかも、門内に玄関を向いて立てました。これは往来を背中にしているため、背中合わせの松飾りと呼ばれました。
鳥越の平戸藩松浦家では椎の木の枝と竹を立てたため、「椎の木飾り」といったそうです。
【吉原の背中合わせの松飾り】
安藤家の松飾りは、「背中合わせの松飾り」と呼ばれましたが、江戸には、その他に「背中合わせの松飾り」と呼ばれた松飾りがありました。
三田村鳶魚は、お大名の松飾りの説明の中で吉原の門松も背中合わせに飾ると書いています。
門松は、普通戸口から外に向けて置きますが、吉原では、松飾りを見世の方に向けていました。
向こう側の店でも同じように立てるので、道の真ん中に背中合わせの形で立てられました。
そのため、「背中合わせの松飾り」と呼ばれました。
門松は、店先に相対するように2~3間離して立てたそうです。
有名な清元の「北州(ほくしゅう)」に次のように歌われています。
「霞のえもん坂 えもんつくろう初買(がい)の
袂(たもと)ゆたかに大門の
花の江戸町京町や
背中合わせの松飾り」
この「北州」は大田蜀山人が作詞したそうです。
このように門松が立てられてのは、お客さまが外に出ないようにというまじないだったようです。
平戸藩主松浦静山が書いた「甲子夜話(かっしやわ)」の巻4に「新吉原の娼家にては、門松を内に正面に立てると云ふ。これは客の不出を云ふ表兆なりと。」と書かれています。
この「背中合わせの松飾り」を詠んだ川柳が残されています。
門松を吉原ばかり向こふに見
松飾り後ろを向ける別世界