久坂玄瑞は、古川薫氏の「花冠の志士」によれば、天保11年(1840)に萩藩医久坂良迪の三男として生まれました。幼名は秀三郎といいました。
兄の久坂玄機は、秀三郎より20歳年上で、大変優秀で、久坂家を継ぎました。ですから、秀三郎は、普通であれば、医者になる必要はありませんでした。
しかし、ペリ-が来航した嘉永6年、玄瑞が14歳の夏、母がなくなり、そして翌年嘉永7年の2月には、兄玄機がなくなってしまい、その一週間後には父良迪がなくなります。
そのため、秀三郎が、久坂家を継ぐことになり、玄瑞と名乗るようになります。
ですから、「花燃ゆ」で、文と出会う頃は、まさに孤独な境遇でした。こうした事情は、久坂玄瑞の回想の中で描かれていました。
「ついてない男」というタイトルは、この久坂玄瑞が、相ついで、肉親をなくし、自分が藩医を継ぐことになったことを指して付けたものだと思われます。
ただし、この頃に、久坂玄瑞と文が出あったというのは、創作でしょう。
さて、吉田松陰の動向については、「花燃ゆ」の中では飛び飛びにしか描かれていませんので、ペリー艦隊に乗り組むため、下田に行くまでを簡単に書いておきます、
脱藩の罪で萩に送還された吉田松陰は、脱藩したため、吉田家の家名断絶となりました。
そして、松陰自身は、父百合之助の「育み」となりました。
「育み」というのは長州藩独自の制度で、父の保護下におかれることとなりました。
松陰という有名な号は、この時期にを使い始めたと言われています。
そうして、萩で過ごしていた松陰に対して、毛利敬親は、10年間の国内遊学を許しました。
毛利敬親は、吉田松陰を高く評価していたと言われています。
そこで、吉田松陰は、2度目の江戸遊学に出ます。
吉田松陰は、近畿を周遊したのち、江戸に到着しますが、桜田の藩邸に入らず、蒼龍軒に草鞋を脱いだ後、すぐに鎌倉の叔父の所へ向かいました。
そして、再び江戸に戻り、桜田藩邸に出向いた日に、浦賀にペリー艦隊がきたことを知らされます。
すぐに、佐久間象山の塾に向かいますが、既に象山は浦賀に向かっていました。
そこで、松陰も浦賀に向かい、ペリー艦隊を海岸から眺めていましたが、国書を渡したペリー艦隊が浦賀を去っていったため、松陰も江戸に戻ります。
このペリー来航に刺激された吉田松陰は、佐久間象山の塾で、西洋事情の収集や西洋兵学を熱心に学びます。
そして、西洋に伍して戦うとためには、海外の事情を知る必要があり海外渡航が必要と考えるようになります。もともと、佐久間象山がそうした考えを持っていたようです。
そこで、ロシア使節プチャーチンが長崎に来たという報を聞いた松陰は、海外渡航をするために長崎に向かいます。
しかし、松陰が長崎についた時には、プチャーチンは長崎を去った後でした。
やむなく、吉田松陰は江戸に戻ります。
そうしているうちに、嘉永7年正月に再びペリーがやってきます。
そこで、吉田松陰は再び海外渡航を計画します。
この時期には、兄の梅太郎も江戸に出てきていました。兄の梅太郎は、松陰が「とんでもないこと」を計画をしているという噂を聞いたようで、大変心配をしたそうです。
これは、「花燃ゆ」でも描かれていましたね。
しかし、松陰は、海外渡航の計画を実行しようとします。
嘉永7年3月5日に、佐久間象山に別れの挨拶をしに訪ねますが、象山は出張中であったため象山には会えないままに、江戸を出発します。
横浜で佐久間象山とあった後、黒船への乗りこみの機会をうかがいますが、チャンスがありませんでした。 チャンスがないまま時が過ぎた後、ペリー艦隊は、横浜を出港し下田沖にむかってしまいました。
そして、下田に着いた吉田松陰と弟子の金子重輔は、ついに、3月27日に、ペリー艦隊に乗りこむため、夜の海に漕ぎ出すのです。
これ以降の展開は、第4回で描かれるようです。

