先日、川越の時の鐘について書いたところ、信州健児さんから次のようなお問い合わせがコメント欄にありました。
時の鐘ですが、江戸時代の人はこの時の鐘で時刻を知ったのですが、鐘を撞く人はどのようにして時刻を知ったのですか?不定時法の和時計を所有していたのでしょうか?
多くの方も疑問に思う大変良い質問だと思いましたので、ブログ本文で回答させていただこうと思います。
江戸には、9カ所に時の鐘があったとされていますが、その中で、すべての時の鐘に時計があったかどうかは不明ですが、多くの時の鐘には、時計があり、それにより時刻を計り、鐘を撞いていたようです。
時の鐘があったとされる場所は次の9ヵ所です。
本石町、浅草寺、上野寛永寺、本所横川町、目白不動、
市谷八幡、赤坂田町、四谷天竜寺、芝切通し
この中で、時計があったと思われるのが、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。
まず、本石町ですが、鐘撞役の辻源七の書留(享保年間)に 「時の勤方之儀は常香盤ならびに時斗(とけい)貮組(にくみ)を以て相勤申候」 と書かれています。
さらに、元文元年の鐘撞銭の徴収状況と使途について書いた記録が残されています。
この中に、時計磨料 金弐分 、常香 金弐分 と書かれています。
時計磨料というのは、時計の管理費用でしょう。
また、常香というのは、「香盤時計」のことです。時計と同様に時刻を確認するため所有していたものと思われます。これらから、本石町の時の鐘は、時計と香盤時計で時刻を計っていたことがわかります。
次いで、上野寛永寺の時の鐘です。
寛永寺に残された「寛永寺鐘撞堂文書」の元文4年の記事の中に、「尺時計」と「大時計」を使用して、時刻の調節をしていると書かれています。
右写真は、上野の時の鐘です。
これらのことは、主に浦井祥子先生の「江戸の時刻と時の鐘」を参考にさせていただきました。
また、浦井先生は、芝切通しも増上寺が所有している時計に基づいて鐘を撞いていたと書いています。
次いで、四谷(新宿)天龍寺ですが、天龍寺の時の鐘は、5代将軍綱吉の側用人を勤めた牧野成貞が寄進したと言われています。その時の鐘と同時に、鐘をつく時刻を知るための櫓時計も、牧野成貞から寄進されていて、新宿区の有形文化財に指定されています。
なお、天龍寺の櫓時計は、拝観をお願いすると、お寺で支障がなければ見させていただけます。
右写真は、 数年前にお邪魔して見させていただいた時のものです。
また、坂内誠一氏著の「江戸最初の時の鐘」によると、本所横川町の天保13年の「鐘撞堂修復書留」に天保13年に新規の時計を注文したところ18両かかったと書かれているそうです。
以上、いろいろな本や史料などから判断して、「時の鐘」には、時刻を計るため、櫓時計などの和時計が設置されていたと考えてよいと思います。
また、享保11年(1726)に能勢肥後守の名前で出された文書には時の鐘の撞き方についての指示が書かれています。
すなわち
市谷の東円寺(市谷八幡)の「時の鐘」は、上野寛永寺の「時の鐘」が捨て鐘を撞いたのを聞いてから撞きはじめるように指示してあります。そして赤坂成満寺は市谷八幡の捨て鐘を聞いて撞くように、芝切り通しは赤坂成満寺の捨て鐘を聞いてから撞きはじめるようにと指示してあります。
この指示から考えると、少しの遅れはありますが、上野、市谷、赤坂、芝の時の鐘は、それぞれ連携をとって(いわばリレー方式で)時刻を知らせていたので、江戸市中で、大幅に時刻が違うということはなかったと思われます。
余談ながら、この幕府の指示によれば、市谷八幡で寛永寺の鐘の音が聞こえたことになります。
市谷八幡から上野の時の鐘まで、直線距離で、約4.5キロあります。
上野寛永寺の時の鐘は、現在でも朝夕6時と正午の3回、鐘の音を響かせていますが、湯島にお住いの方に、「鐘の音を聞いてことがありますか」とお尋ねしたら「聞いたことはありません」という答えでした。
現在では、湯島で聞こえなくても当然だと思いますが、江戸時代には、時の鐘は、かなり遠くまで鐘の音を響かせていたんですね。

