ペリー艦隊への乗り込みは、回想の形で描かれていましたが、ようやくペリー艦隊の旗艦ポーハタンに乗り込めた吉田松陰と金子重輔の海外渡航の希望を、なぜペリーは拒絶したのでしょうか?
その答えは「ペリー艦隊日本遠征記」に書いてあります。
そこで、「ペリー艦隊日本遠征記(オフィス宮崎編訳)」によって、そのやりとりを書いておきます。
(ペリー)提督は彼らの来艦の目的を知ると迎えることはできない、と答えさせた。そして、二人が日本政府から許可を受けるまでは、受け入れを拒絶せざるをえないが、艦隊は下田港にしばらく滞在する予定だから、許可を求める機会は十分にあるだろうと言ってきかせた。提督の回答に二人は大変動揺して、陸に戻れば首を斬られることになると断言し、とどまることを許してもらいたいと熱心に懇願した。この願いはきっぱりと、しかし思いやりを込めて拒絶された。
ペリーがなぜ吉田松陰の願いを拒絶したか、その理由も「ペリー艦隊日本遠征記」の中に書かれています。
提督とその士官は、信頼につけこんだり、条約の精神に反するような行為をするつもりはなく、当局の同意がない限り日本人はひとりアメリカ船に迎え入れることはないので、今後は心配は無用であると伝えた。
つまり、幕府が承認したものであれば、艦隊に乗せて渡航させてもよいが、幕府の承認がない場合には、連れていけないと考えていました。
もし、提督が、自分の感情の赴くままに自由に事を進めてよいと思うのであれば、(中略)日本を脱出しようとした哀れな日本人を喜んで艦内にかくまってやっただろう。しかし、曖昧な人道心より高度な考慮を必要とする問題があった。ひとりの人民の逃亡を黙認することは、日本帝国の法律に背くことであり、すでに多くの重要な譲歩を意に背いて行った国の規範をできる限り顧慮して従うことが、唯一の正しい政策だった。
ペリーは、日米和親条約を幕府が結びましたが、それは幕府が大幅に譲歩した結果であることを理解していたようです。
ですから、ペリーは、吉田松陰の海外渡航を手助けするのは、日本の法律を犯すことになり、それにより、ようやく日米和親条約を締結して開国にまでこぎつけた日米関係に悪影響が出ては困ると考えたようです。
しかし、それだけでなく、別の理由もあったようです。
それは次の文に書かれています。
日本帝国では死罪をもって自国民が外国に赴くことを禁じている。艦隊に逃れてきた二人の男は、アメリカ人には無実だと思われても、日本の法律に照らせば罪人なのだ、そのうえ二人の日本人が自ら述べた説明を疑う理由はないにしても、彼らが主張する動機とは別の、もっと不純な動機が働いていた可能性もある。それはアメリカ人の節度を試す策略であったかもしれず、そう思った者もいたのである。
つまり、吉田松陰たちがスパイではないかと疑ったようです。
なお、「花燃ゆ」の中で、ペリーが寛大な処置を幕府に要望したという場面がありましたが、そのことについてもペリー艦隊日本遠征記に書かれています。
哀れな二人の運命がどうなったのか、確かめることはまったくできなかったが、当局者が寛大であり、斬首という最も重い刑に処することのないように望む。なぜなら、日本の法典によれば大罪であっても、われわれには自由で大変賞賛すべき好奇心の発露だと見えるからである。
ちなみ、提督からの問い合わせに対して、当局が深刻な結末を懸念する必要はないと保証したことは、せめてもの慰めであった。