3月には「吉田松陰ゆかりの地を歩く」で、小伝馬町牢屋敷を案内しますが、それとも関連するので、松陰の小伝馬町牢屋敷入牢について書いておきます。
海外渡航に失敗した吉田松陰は、下田で自首し逮捕されます。そして、江戸に送られ、北町奉行井戸対馬守の取調べを受けて、小伝馬町牢屋敷に入れられます。
小伝馬町牢屋敷は、現在の小伝馬町駅近くの十思スクエア(右写真)および十思公園にありました。
小伝馬町牢屋敷は、全体で2600~2700坪あり、表門は西側あり、表門を入ると左手に塀があり、その奥に牢屋がありました。
現在、十思スクエア玄関に、小伝馬町牢屋敷の模型が展示されていて、牢屋敷の様子がわかるようになっています。(右下写真)
小伝馬町牢屋敷には、東牢と西牢があり、庶民が入牢する大牢と二間牢が一つずつ、御目見以下の御家人、諸藩藩士、僧侶、神官などが入れられる揚屋が、各二つあり、奥揚屋と口揚屋があります。吉田松陰は、長州藩士ですので、東口揚屋に入れられました。
口揚屋というのは入り口に近いため口揚屋と呼ばれているように思います。
「世に棲む日日」では、入獄した際に、牢名主が脅かすと、松陰は「私は命を惜しむものではない。すでに死を覚悟して渡海を決意した以上、どこで死んでも杭はない」と話すと牢名主は気味悪くなって「おまえは何者だ」と言辞を改めて尋ねるので、海外渡航を行おうとしたことを説くと「皆感激」したと書かれています。
また、「松風の人」でも、入牢の際に、牢名主が脅かすと「私は死を覚悟しており恐れるものはありません」と言い考えを陳べると、牢名主は学殖のある者で口調を改め穏やかな口調でお金を手配してもらうため「手紙を送れ」といい、『東揚屋の囚人たちは松陰を取り囲み、その履歴を詳しく知ろうとした。松陰がこれまでの努力を語りおえると、彼らは皆感激した。』と書かれています。
「花燃ゆ」で描かれた場面とほぼ同じです。
こうした牢名主の対応があり、さらに知人からの「ツル」の差し入れもあり、牢屋敷内での序列も上位とされたため、吉田松陰は牢内での生活はそれほど厳しいものではなかったようです。
吉田松陰が、密航の罪で小伝馬町牢屋敷に入られことに連座して、師匠の佐久間象山も逮捕され小伝馬町牢屋敷に入れられました。
それは、佐久間象山が、吉田松陰の海外渡航を扇動したと疑われたからです。
吉田松陰は東口揚屋でしたが、佐久間象山は、東奥揚屋でした。
そのため、牢内で会話を交わすことはできませんでした。
吉田松陰は、罪状を素直に認めました。
しかし、佐久間象山は、国禁した覚えはないと強く抗弁しました。
そして、奉行所の与力の調書の語句の読み違いまで指摘するほどでした。
そのため、佐久間象山に対する奉行所の心証はかなり悪かったようです。
吉田松陰、佐久間象山ともに、国禁を犯した大罪人であるので、死刑が相当という声が強かったものの、最終的には国許で蟄居ということになりました。
この判決については、昨日も書いた通りペリーからの要請もあり、幕府が国際関係も配慮した結果であると考えられています。

