まず、冒頭に昨日の過去問の回答を書いておきます。
正解は、(ろ)6泊7日です。
「参勤交代道中記 加賀藩史料を読む」(忠田敏男著、東京平凡社発行)には次のように書いてあります。
「最小日数というと、4代光高が6泊7日の記録を作った(寛永21年)。光高の正室は水戸徳川頼房の娘で、徳川家光の養女になっていた清泰院である。その清泰院が産気づいたので、「江戸より早々参勤なさるべき旨の御内書」の飛脚がきた。光高は昼夜の区別なくひたすら急いだ。江戸までの日数6泊7日というのは、早道飛脚が夏は5日、冬は6日で走っており、光高は、その飛脚並の早さで急いだことになる。歩くというより小走りの連続だったと想像できる。」
それにしても平均して約17里歩くのですから大変です。
加賀藩上屋敷は、現在の東大本郷キャンパスです。直線距離で70キロ程度のところを探すと埼玉県の深谷市です。これを一日で移動するのですから大変だったでしょう。
昨年話題になった「超高速参勤交代」でさえ、奥州湯長谷藩に下った命令が5日で参勤しろという命令でした。湯長谷藩まで、日本橋から約40里ですので、それを上回る「超々高速参勤交代」ということになると思います。
加賀藩前田家の参勤交代のルートは「参勤交代道中記」によれば3ルートありました。
第一は、金沢から富山方向に道を通るルート、第2のルートが、金沢から福井を経由し中山道に出るルート、第3のルートが、金沢から福井を経由して東海道に出るルートです。
第1のルートは約120里、第2のルートは164里、第3のルートが151里程度だったようです。
加賀藩前田家の参勤交代は190回あったそうです。
そのうち、第1のルートつまり富山方面に向かうルートが181回、その他が9回で圧倒的に第1のルートが多くなっています。
その理由は、まず第1のルートが、距離が短いことがあります。
しかし、それ以外にも理由があるそうです。
それは、第2・第3のルートは、御家門の福井藩松平家と御三家の尾張藩の支配地を通らなければならず、大変気苦労が多かったという理由もあったそうです。
今日は、仙台藩の参勤交代の例も見てみます。
4代藩主伊達綱村が初めて仙台に入国したのは、延宝3年(1675)のことでした。9月19日に江戸を発ち、27日に仙台に着いていますので、7泊8日で仙台まで移動したことになります。
仙台から江戸までの距離は92里30町です。7泊8日ですと平均して一日10里あまり移動していることになります。
この時の初日には、江戸藩邸を午前6時に発って、越谷宿で昼休み、粕壁宿に泊まっています。
江戸・粕壁間は約10里あります。
この時の人数は、「伊達治家記録」によると3480人余りだったようです。
幕末になると人数は少なくなってきていますが、文久3年の伊達慶邦の上洛の行列は2200余りというのですから、仙台藩の参勤交代の行列は2000名を超えていたものと思われます。
ですから、仙台藩も2000名以上の行列で一日10里程度歩いていたようです。
次いで、盛岡藩南部家の参勤交代の様子が、「参勤交代 巨大都市江戸のなりたち」の中に書かれていました。
それによると盛岡藩は、10万石の外様大名で、奥州道中を隔年で往復しました。
盛岡城下から江戸まで139里(約556キロ)です。
盛岡藩の参勤交代行列の規模は、500~600人程度でしたが、財政難のため供連人数は減少していく傾向にあり文化5年に20万石に格上げされても300人程度だったようです。
そして、盛岡から江戸までの日数は、11泊12日もしくは12泊13日で江戸に到着するのが最も典型的な日程で、平均して1日43キロ~46キロ(まぁ11里程度ということになりまず)、なかには50キロメートル以上も移動することもあったそうです。
その例としてその説明がされている地図の中で盛岡を出発して宇都宮に11日目に宿泊していて、12泊目が杉戸になっています。これを直線距離で計っても60キロあります、つまり約15里も移動したということになります。
300人の行列で約15里、これも大変ですね。
以上、加賀藩、仙台藩、盛岡藩の例を見ましたが、いすれも大勢の行列で、一日10里程度移動するのが普通だったようです。
江戸時代の人々の脚力に驚かざるをえません。

