今回のタイトルは「志の果て」ですが、これは、「金子重輔の『志の果て』」という意味だと思われます。
そのため、金子重輔について、かなり詳しく描かれていました。
そこで、今日は、金子重輔について少し詳しく書きます。
金子重輔は、「花燃ゆ」の中でも母親が言っていたように、染物屋の子供として生まれましたが、足軽金子家の養子になり、軽輩ながら一応武士身分として大きくなりました。
そして、江戸に出た重輔は、桶町に鳥山新三郎が開いていた蒼龍軒という塾に入門します。
吉田松陰も、この蒼龍軒に入門し、ここで二人は知り合いになります。
吉田松陰が、脱藩により萩に戻された後、再び江戸に上京しますが、江戸に着く早々、ペリーが浦賀に来航します。そして、西洋の進んだ様子を、佐久間象山から学び、海外渡航を計画します。
しかし、ペリーは浦賀を去っていたため、それが実現できませんでした。そうこうしているうちに、長崎にプチャーチンがやってきたため、吉田松陰は、ロシア船に乗り込むとしますが、これにも失敗します。
そして、江戸に帰ってきます。ここまでは、松陰は一人で海外渡航しようと考え行動しています。
しかし、蒼龍軒で、金子重輔は、吉田松陰が海外渡航しようとしていることを知り、同行させてほしいと強く望んだようです。
海外渡航が国禁であり、失敗すれば重罪になることを承知している松陰は、なかなか同行を認めませんでしたが、あまりにも重輔が強く望むため、それを許しました。
しかし、二人で実行した海外渡航が失敗し、二人は自首し江戸に送られます。
ここで、士分の処遇と足軽身分の重輔との処遇が違ってきます。
北町奉行所での取り調べでも、士身分の松陰は板縁に座らされたのに対して足軽身分の金子はお白洲に座らされます。
そして、小伝馬町牢屋敷に送られますが、松陰は駕籠で、金子は徒歩で連れていかれました。
小伝馬町牢屋敷でも、松陰は揚屋に入れられ、牢名主の対応や知人の「ツル」の差し入れにより、待遇は悪くありませんでした。
しかし、足軽身分の重輔は、初め無宿牢次いで百姓牢に入られます。
重輔は、小伝馬町牢屋敷の牢内で病気となり、病気のまま出牢し、麻布の長州藩邸に収容されますが、長州藩の医者の診察は一度だけ、小伝馬町牢屋敷を出た時のままの衣服だったそうです。
二人を萩への護送する際の扱いはひどく、犬馬にも劣る扱いだった松陰が述べています。
そのため、護送される際には重病となっていた重輔に対する扱いもひどく、重輔がしばしば下痢をしても着替えさえ認めませんでした。
松陰が強く抗議したため、ようやく一度だけ着替えを認めるほどでした。
こうした状況で護送されているため、重輔は、日々衰弱していき、萩領内に入って受けた医者の診察によれば、長州藩に入った時には重態で手遅れ状態にあったようです。
そうした状況で、重輔は岩倉獄に入れられました。
松陰と重輔は、それぞれ野山獄と岩山獄に分かれて入れられまました。
それは、野山獄は士分の者が収容され、岩倉獄は庶民が収容される牢獄と別れていたからです。
獄が分かれているため、重輔の容態について、松陰は細かく知ることができませんでした。
重輔がなくなったのは、二人が萩に到着して2か月後余り後でした。
重輔の死を知った松陰は、悲嘆にくれ、毎日の食事を減らし、その減らした食費を積み立て、石灯籠を建てようとしました。
しかし、その積立金は250文でしたので、重輔の遺族により石の花筒が建てられました。
吉田松陰の悲しみが如何に大きかったかがわかる逸話だと思います。
昨日の「花燃ゆ」の最後のゆかりの地を歩くでは、その花筒が、現在も金子重輔の墓前に建てられていると紹介してくれていました。