節分とは「季節を分ける」ということで、本来は、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を言い、年に4回ありました。
しかし、日本では立春を1年のはじまりとして考えるようになり。節分といえば立春の前日を指すようになったと言います。
また、現代では、節分といえば、正月後の行事ですが、旧暦で暮らしていた江戸時代には、新年にならないうちに節分が来るということがままありました。
ですから、「東都歳事記」では、節分が12月に入れられています。
「東都歳事記」には次のように書かれています。
今夜尊卑の家にて熬豆(いりまめ)を散(うち)、大戟(ひいらぎ)、鰯の頭を戸外に插す、豆をまく男を年おとこといふ、(後略).
節分といえば、柊の小枝と鰯の頭を門口に差し、豆をまくのが普通です。
江戸時代も、現在のやり方とほぼ同じように行われていたようです。
4代目歌川広重こと菊池貴一郎が書いた「絵本江戸風俗往来」には、節分の様子が次のように書かれています。
上下一般とも、当日は、柊の小枝と豆の枯茎へ塩鰯をさしたるを、家の門戸より出入口・窓へも挟み、日暮れに及ぶや神前仏前へ灯明の数多く輝かせると同時に、台所にて鬼うち豆とて白き豆を煎りて米の升に盛り、三方へ乗せて出す。
この豆を受取り、豆撒く役目の人まず神前より仏壇に供じ、家の間毎にまき、ならび雪隠へ撒くなり。豆をまくに大音に「鬼はァ外、鬼はァ外」と二声いいて、次に「福はァうち福はァうち福はァうち」と三声叫ぶや、その座敷の戸障子を閉じ、撒き散りたる豆を年の数程拾わんとて、老幼男女騒ぎ合いて拾う。
その中、福茶とて山椒・梅干・黒豆を加えて茶を煮て出す。福茶飲む中、奉公人は主人の前に出て、当夜の目出たきを祝す。子弟は父兄へ祝賀の礼あり。終わりて蕎麦の振舞ありて後、主人は氏神へ詣ずる。
「福はァ内」は我が家では2回ですが、3回叫んだのですね。
そして、蕎麦の振舞もあったんのですね。
次いで、「厄払」という門付(かどづけ)が来ることも書いてあります。
現在は、この「厄払」という門付はすっかり姿を消してしまっています。
その中に厄払という者来るを呼びて、拾いたる豆に銭を添えて厄払に遣わす。厄払は目出たきつらねを述べて悪魔を払う。その中に獅子舞来る。これを呼びて笛太鼓を打ち鳴らし、当夜の悪気を払うなど、節分のありさまなり。
以上が「絵本江戸風俗往来」で書かれている節分の様子です。
また、三谷一馬氏著「江戸年中行事図聚」には、大奥の節分の様子が書かれていますので、箇条書きに要約して書きます。
それでも、長いんですが・・・
①大奥の年男(武家で追儺の豆打ちを勤める男)は、筆頭の御留守居が勤めました。
②御留守居は、子持筋の熨斗目、長上下を着て、御休息の間の次の間で、御台所に御目見えします。
③座を下がると長上下をたくし上げ、煎豆を三方ごと表使から受取り、縁側に降りて福草履を履きます。
④まず恵方に向って進み、三方の上につまみ出した煎豆三粒を歳徳神へ供えて拝し、三歩後ずさりをして恵方を後にします。
⑤次に御休息の間の縁先近くへ進んで、「福は内」と声を張り上げて三度豆をまきます。
この時に「鬼は外」とはいいません
⑥再び、御次の間に行って、枡の豆を、御台所の歳より一つ多い数だけ白紙に包み、御年寄の手を経て午前に捧げます。
⑦そして、枡に盛った煎豆で「万万歳」の三文字を畳の上に書いてお祝い申し上げます。
⑧御留守居は枡をもって長局に行き、「福は内」と叫んで部屋に豆をまき、次いで隣の部屋に行って同様に繰り返します。
(これを全部屋やるのかどうかについてまでは書いてありませんでした)
⑨長局の豆まきが終わり、枡に残った豆を表使に引き渡します。
⑩すると、次の御納戸に控えていた御次、御三の間の二十余人が出てきて年男を胴上げをします。
その時、「御代は目出度きこの君さまよ、鉄(かね)の土台の腐るまでお目出度や
鉄の土台は愚かなことよ、石の土台の腐るまでお目出度や
これはこなとの大黒柱
と調子を揃えて歌いつつ三度胴上げして、静かに元の座に戻します
⑪年男には「万万年」という料理を供し、それが終わると年男は逃げるように退出したそうです。
次の絵は、「千代田の大奥」に描かれている大奥での節分の様子ですが、左にいる男性が年男(御留守居)で、豆で「万万歳」と書こうとして、「万」の字を書き始めています。