そこで、「浅草寺の節分会」に行ってきました。
浅草寺の節分の豆まきは、本堂の東側に作られた特設舞台で、正午、午後2時、午後4時と3回行われました。
私達は、正午からの豆まきに行ってきました。
午後4時からは芸能文化人が参加するそうですが、正午、午後2時からの豆まきは一般の年男の人たちが行っていました。
豆まきが始まったのは12時10分過ぎでした。大勢の人が福豆を求めて殺到していました。
なお、浅草寺での豆まきの発声は「千秋万歳(せんしゅうばんぜい) 福は内」で、「鬼は外」はないそうです。
江戸で節分の行事を寺院で大規模に行ったのは浅草寺が最初と浅草寺のホームページに書かれています。
「東都歳事記」には、次のように書かれています。
淺草寺觀音節分会は、宝前にて、一山衆徒般若心經を來年の日數程讀誦す。
終りて豆を打ち、又外陣の左右の柱に高く架を構へ、これに登りて節分祈祷の守札をまきあたふ。諸人挑み拾ひて堂中混雑せり。但し申の刻に行ふ。
この札に節分を印したる所の分の一字をさきて、妊婦(ハラミヲンナ)に服せしむれば、はたして平産ありといふ。 又立春の札をも出す。
浅草寺では、豆をまくだけでなく、守札(まもり)をまき、大勢の人で大混雑したようです。
その様子は、『江戸名所図会』に次の説明とともに絵が描かれています。
節分会 この日節分の守札(まもり)をいだす。これを受け得んとす輩(ともがら)堂中に充ちて、その囂(かまび)しきこと言葉に述べがたし。
なお、江戸検を受検される方は、お札が柱の上からまかれることを下図とともに良く覚えておいた方よいと思います。
この守札の配布の様子は、東洋文庫「東都歳事記」の注釈欄に「浅草寺志」から引用して詳しく書かれています。 (読みやすいように一部かなに変えてあります)
外陣(げじん)南の左右の柱に各高さ一丈ほどに構たる棚に登る。下部(しもべ)は二人ずつ従い登る〔三間梯子を掛け登る也、棚の大きさたいがい竪(たて)三尺に横二尺ばかりにて柱に打ち込みある鎹(かすがい)の中に差込み、網を以て柱にからむ〕、譜代この上より彼の札を蒔く。札数三千枚あり(惣札数は五万枚ばかり)扨(さて)諸人に施に、平等ならざる故に、二人の下部 手に団扇(うちわ)を執り〔団扇の表に金の字、裏に札の字を書す〕その札を扇き散らす也
これによると外陣の左右の柱の3メートルばかりの高さに、縦90センチ横60センチぐらいの板を差し込んで、その上から3000枚のお札をまいたようです。
3000枚ものお札をまいたということは、それを上回るほどの群衆が集まったということになります。
そもそもお札の総数が5万枚ですから、すごい規模ですね。
現在も、「節分・立春札」のお札が配布されています。
現在は、お守授与所で300円で授与されています。
私も買ってきました。
そして、お札が平等に行き渡るように、大きな団扇で扇いだとも書いてあります。
その大団扇には、表には「金」裏には「札」と書かれていたそうです。
昨日の節分会にも大団扇が出ていて、「金」と「札」と書かれていました。
右写真は、豆まきが終了した年男たちが伝法院に帰る時の写真ですが、この行例に「金」と「札」と書かれた大団扇が入っていることがわかると思います。
大団扇にもちゃんとした由来があるのですね。