第7回の「花燃ゆ」は、吉田松陰が、野山獄を出獄するまでの様子が描かれていました。
前回の「花燃ゆ」で描かれていたように、吉田松陰が野山獄に入った時は、沈滞していた野山獄の中も、吉田松陰が入獄したことにより、活気が出てきたのは事実のようです。
海外渡航という思い寄らないことを企てたということ、そして松陰の人柄によって、野山獄内での勉強会が盛んになってきました。最初は、吉村善作を先生とした句会と富永有隣を先生とした書道の勉強会だったようです。
吉田松陰が、野山獄で獄内教育をしたことはかなり知られていますが、松陰が実際に講義を行ったのは、入獄後半年余り後でした。
安政2年4月12日に、吉田松陰が、「孟子」をテキストにした講義を始め、6月10日に終了しました。
そして、その直後の6月13日から「孟子」の「輪講」が始まっています。
「輪講」というのは。数人が順番に教師となって教える形式の講義です。
当初は、獄内の囚人たちを対象とした講義でしたが、安政2年の夏ごろからは、司獄の福川犀之助も講義を聴講するようになりました。
安政2年12月15日に、病気療養を名目に身柄を自宅に預けられました。
この処置には、「花燃ゆ」で描かれていたように水戸藩の働きかけがあったと言われています。
松陰が野山獄を出る際に、野山獄では句会が開かれました。
このことは「花燃ゆ」でも感動的に描かれていました。
その句会が詠まれた句が現在も残されています。
相宿の朝の別れや冬のあめ 豊浦
見送ればなおかげ寒し梅嫌(うめもどき) 和暢
世に浮かむ芽張柳の競ひ哉 谷遊
一とせの夢か別れの寒さかな 琴鳴
星冴(ほしざえ)や今宵は何の夢を見む 蘇芳
あとへ香を残して出たり室(むろ)の楳(うめ) 節洞
いずれも、吉田松陰との別れを惜しむ情愛のあふれる句ばかりです。
そうした句の中でも、一際、際だっているのが、次の句です。
鴫(しぎ)立ってあと淋しさの夜明かな 久子
これは、女囚高須久子が詠んだ句です。
松陰の別号が、「子義(しぎ)」であったことを考えると、その意味は明瞭だと思います。
最後に『二十一回孟子』という松陰の別号が出てきましたので、これについて説明しておきます。
吉田という姓を分解すると次のようになります。「吉」は「十一」と「口」になり、「田」は「口」と「十」になります。
これらを再度組み合せると「二十一回」となります。
さらに実家の「杉」は「十」と「八」と「三」に分解でき、これを足すと「二十一」になります。
そして、松陰の名前は「寅次郎」で、「寅」は「猛々しい」ということから「猛」であり、「士」を加えて、「二十一回猛士」と名乗ったと言われています。
吉田松陰の遺書と言われている「留魂録」に書かれた次の辞世にも「二十一回猛士」と書かれています。
身はたとひ武蔵 の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 二十一回猛士
吉田松陰が刑死した小伝馬町牢屋敷跡には、吉田松陰終焉之地の碑が立っていて、そこに辞世の句が刻ざまれています。(右上写真)

