そこで、今日は。「花燃ゆ」について書きます。
今回は、松下村塾のスタートと久坂玄瑞との出会いのお話でした。
安政2年12月に、野山獄を出獄した吉田松陰は、実家杉家の小部屋で蟄居することになりました。
ここで、野山獄での行われていた「孟子」の勉強会を、ごく身内で始めたのが、松陰主宰の松下村塾の始まりです。
「松下村塾」はあまりにも有名ですので、吉田松陰が創った塾と思っている方が多いと思いますが、実は、「松下村塾」というのは、松陰の叔父の玉木文之進が造った塾です。
玉木文之進が、役職に就き多忙となったため、自然と閉鎖されていましたが、その後、やはり松陰の叔父の久保五郎左衛門が継続していました。
それを吉田松陰が継いだ形ですので、正しくは3代目の主宰者が吉田松陰ということになります。(まぁ、このことは、それほど重要なことではないと思いますが、念のため)
ところで、「松下村塾」という名前の由来ですが、「松下」は「まつもと」とも読めますが、「松本村」という村名から採られたのです。
番組の最後には、萩の松下村塾が照会されていましたが、東京の世田谷にある松陰神社にも松下村塾が復元されています。右上写真がそれです。
松下村塾の狙いを、吉田松陰は、弟子を教育するためと考えていなかったようです。
松陰の狙いは、「一世の奇士を得てこれと交りを締(むす)び、吾の頑鈍磨かんとするにあり」
つまり、やってくる塾生によって自分の頑迷さを磨いてもらおうと考えていたようです。
このことは、「花燃ゆ」で、松陰が久坂玄瑞に、「ともに学ぼう」と語っていたことになります。
吉田松陰と久坂玄瑞の出会いについて、海原徹氏の「吉田松陰」によれば、久坂玄瑞は、「僧月性の紹介で来た。安政元年頃からしばしば亡兄玄機の親友月性に教えを乞うていた玄瑞は、彼の強い勧めで村塾に現れたものである。」と書いてあります。
一方、司馬遼太郎の「世に棲む日日」では、久坂玄瑞が、吉田松陰の名前を知ったのは、肥後の宮部鼎三の話がきっかけであると書いてあります。
「花燃ゆ」と同じですね。
そして、久坂玄瑞の入門にあたっては、「花燃ゆ」でも描かれていたように、手紙を通じての激しいやりとりがありました。
松陰が久坂玄瑞を徹底して酷評したのはわざとやったことでした。
久坂玄瑞の非凡な能力を認めたためです。
そして、久坂玄瑞も反論を書いて、何回かのやりとりの後に、久坂玄瑞は松陰の元に入門します。
後に、松下村塾の龍虎とも呼ばれ、そして、文の旦那さんとなる久坂玄瑞の入門です。
龍虎のもう一人高杉晋作の入門は、次回のようです。こちらも楽しみです。